敵討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 01:39 UTC 版)
女敵討
妻が姦通した際に姦通相手と妻を殺害することを女敵討(めがたきうち、「妻敵討ち」とも表記する)という。姦通が表沙汰になった際の女敵討は武士にとっては義務であったが、たとえ達成しても名誉にはならないため、表沙汰にせずに内々で示談にするケースもあった。しかしながら、江戸町奉行所の「公儀御帳」によれば、通常の仇討ちが元禄年間(1688 - 1703年)を過ぎると減少するのに対して、女敵討は宝永年間(1704 - 1710年)以降に増加している。とくに、享保年間(1716 - 1735年)では届け出のあった仇討ちの半数は女仇討である。なお、庶民の場合でも、このようなケースでは殺人罪にはならない。
制度化されたのは、戦国期からだが[2]、鎌倉期には妻敵討ちを題材とした話が『沙石集』にはあり(蛇が妻を姦通していたものの、夫は杖打ちで許して殺さなかった。しかし蛇達はこれを許さず、姦通した蛇を噛み殺し、男にわびたというもの)、慣習としてあったことがわかる(密懐法も参照)。文明11年(1479年)の事件を機に室町幕府が当事者双方(妻の方も)死罪とする判例を出したため、その後の諸々の戦国分国法においても当事者双方を死罪とすると明記するようになる[3]。
代表的な仇討事件
以下は代表的な仇討ち事件:
仇を討つ討手は、武士はいうまでもないが、町人、農民もおり、幕末に向かって農民が増えた。またその大部分は子、弟妹、妻、臣、弟子、友人などであり、性別ではその大部分は男性であるが、享保8年、奥州白鳥明神前の敵討は姉妹であった。
討手の年齢は、若いものでは白鳥明神前の敵討の妹は13歳、西岸寺河原仇討の岩井善次郎は13歳、摂津芥川敵討の松下助三郎は14歳、赤穂浪士の大石主税は15歳であった。
また敵討に要する時間は享保7年、相模国鎌倉山田原での敵討(伊東はる)は28年間であった。最長は嘉永6年に母の仇を討った「とませ」の53年である[4]。2番目は久米幸太郎による仇討の41年である。
成功率は数パーセントであったといわれる[4]。
なかには返り討ちにあった崇禅寺馬場の仇討のようなものもあり、また芥川の敵討のように、 AがBを殺害すると、 Aの父が処刑され、したがってAがBの近親を討ち、 Bの近親の子がAを討つというような複雑なものもあった。
討手の人数は、1人または2人が多く、これに助太刀が加わることもあり、赤穂浪士の47人というのは異例に属する。
仇討ちを題材とした代表的な文芸作品
ほか多数
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