遺恨あり_明治十三年_最後の仇討とは? わかりやすく解説

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遺恨あり 明治十三年 最後の仇討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/20 03:07 UTC 版)

遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』(いこんあり めいじじゅうさんねん さいごのあだうち)は、2011年2月26日21時00分 - 23時21分に、テレビ朝日系列にて放映された、単発スペシャルのテレビドラマ。視聴率13.0%。

原作は、吉村昭の短編小説集『敵討』所収の「最後の仇討」。1880年12月17日に実際に起きた、日本最後の仇討事件とされる「臼井六郎仇討事件」を描いたものである。

第37回放送文化基金賞でテレビドラマ番組部門の本賞を受賞した[1]

実話およびドラマ概要

秋に明治元年となる慶応4年。秋月藩執政臼井亘理大久保利通からも嘱望されるほどの開明派であったが、守旧派の反感を買い、国家老吉田悟助の命を受けた干城隊の襲撃を受け、妻ともども残忍に殺害される。藩の裁定は臼井殺害の犯人を罰せず、かえって臼井家を罰する不合理なもので、亘理の息子臼井六郎は周囲の反対にもかかわらず、敵討ちの決意を固める。

その後、明治政府の時代となり1873年2月、司法卿江藤新平が出した「復讐禁止令」により敵討ちは禁止された。武士士族となり、廃刀令によって帯刀も認められず、自らの存在意義を見失おうとしていた。

法務省の判事となっていた父の仇、一瀬直久の手がかりを追うため、六郎は上京。殺害現場を目撃した下女のなかは、福岡県庁に給仕として入って情報を集め、六郎を陰ながらに助けていた。一方、法務省の判事・中江正嗣は、自らが土佐郷士として虐げられてきた経験から、武士の特権を特別視することをやめ、日本を近代化するべきだと強く考えていた。のちに六郎と中江は顔を合わせることになる。一瀬直久謀殺事件の被告人と裁判官として。

キャスト

ほか

スタッフ

受賞

外部リンク

  1. ^ 第37回放送文化基金賞受賞一覧”. 財団法人 放送文化基金. 2013年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年5月19日閲覧。
  2. ^ 第37回放送文化基金賞受賞一覧”. 財団法人 放送文化基金. 2013年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年5月19日閲覧。
  3. ^ 嵐・二宮、「東京ドラマアウォード」2冠達成 司会・石坂浩二の質問にはタジタジ”. ORICON NEWS. oricon ME (2011年10月24日). 2024年5月20日閲覧。



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