小澤征爾 受賞・栄典

小澤征爾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 04:56 UTC 版)

受賞・栄典

親族

2015年、左から征悦(長男)、入江美樹(妻)、本人、ジョン・F・ケリー征良(長女)

1962年、井上靖[60]の仲人により、三井不動産社長江戸英雄の娘でピアニストの江戸京子と結婚。京子とは桐朋女子高校の第一期生同士[注 5]であり、当時から小澤は江戸家に入り浸りだったが、留学先のパリで再会し、結婚に至ったものである[61]。ただし英雄は「娘は強い性格で個性が強烈」との理由により、この結婚に最初から反対していた[61]。結局、二人は1966年に離婚したが、その原因について江戸京子は「ピアニストとして練習するにしても、自分が弾きたい時に弾けませんしね。主人が練習に疲れて家に帰って来て、もう音は聞きたくないという。その気持もわかりますしね。それで議論になると、結局は"オレが稼いでいるんだから、オレの意見を尊重しろ"ということで押し切られてしまう。いちばん単純な議論でやって来るんです。それなら、自分が経済力を持てば納得のいく生活が出来るんじゃないかと──」[61]と語っている。このほか、コンクール優勝後にスターとなった小澤が銀座のバーのマダムやモデルの入江美樹(後述)と浮名を流したのも離婚の一因だったと報じられた[61]。また、小澤は留学前に岳父の江戸英雄から約20万円(一説によると50万円)の経済的援助を受けていた[61]。このため、京子との離婚については、桐朋学園の関係者から「デビューまでは江戸家に経済的な負担をかけておきながら、目的を達したらサヨナラ」との非難も浴びた[62]。小澤がN響と契約したのは江戸京子との婚約中であり、若い小澤がN響の常任指揮者に抜擢された背景には、江戸英雄の政治力があったとも報じられた。江戸英雄が自民党の有力者を通じてNHKに工作を行い、前田義徳(NHK専務理事、のち会長)を通じ、小澤をN響の指揮者に雇うよう命令したとの説を、毎日新聞記者であった原田三朗は紹介している[63]

1968年、白系ロシア人貴族の血を二分の一引く[注 6]ファッションモデル兼デザイナーで一時的に女優としても活動していた入江美樹(小澤・ベラ・イリーン)と再婚[65]。美樹の母は料理研究家の入江麻木。美樹との間に生まれた娘の小澤征良はエッセイスト。同じく、息子の小澤征悦は俳優。NHKアナウンサーの桑子真帆は征悦の妻。またミュージシャンの小沢健二は甥にあたる。兄で健二の父・小澤俊夫は「小澤昔ばなし研究所」を主宰する口承文芸学者で筑波大学名誉教授。弟の小澤幹雄は俳優でテレビ・リポーターである。

甥の小沢健二を通じて、首相経験者の芦田均、松方正義、山本権兵衛、実業家の岩崎弥太郎、弥之助兄弟、医師の緒方洪庵、その弟子の福沢諭吉らと親戚関係にある。(詳細は松方正義の項参照)

指揮者齋藤秀雄の母方の祖母である前島久(ひさ。旧姓大津)は、小澤の母方の曽祖父である大津義一郎の実妹であり[66]、小澤は「僕は先生の弟子というより近かったわけです。親類だったからね」[67]と発言している。

NHK交響楽団との関係

N響事件

軋轢に至る経緯

小澤征爾とNHK交響楽団(N響)が初めて顔合わせしたのは、1961年7月の杉並公会堂における放送録音であった。翌1962年には、半年間「客演指揮者」として契約。当初は6月の定期を含めた夏の間だけの契約予定だったが、秋の定期を指揮する予定だったラファエル・クーベリックが出演をキャンセルしたため、12月まで契約期間が延長された。7月4日にはオリヴィエ・メシアントゥーランガリラ交響曲日本初演を指揮するなど小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、10月2日の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への演奏旅行でN響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された直後、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、小澤も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった[68]。このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

マニラ公演の失敗

このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている[69]。原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかった[注 7]のがN響から反感を買った一因だったと述べている[71]。東南アジア演奏旅行における小澤はホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄が小澤に敵対心を持ったため、或いは「38度の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」ともいわれる[72]。これについて、小澤は

「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒して[73]しまった。しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」[74]

としている。「一説によると美男子で鳴るコンサートマスター(海野)が、小澤が現れてからファンレターがめっきりへったため、アタマに来てアジったということだ」との報道もあった[75]

紛争の原因

後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリー(2007年9月にサイトウ・キネン・フェスティバルの企画として、NHKで放送された)で、小澤はこの事件の背景について「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」との趣旨の発言で振り返っている。しかし原田三朗はこの見解を否定し、

「アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」[76]

と述べている。

社会問題に発展

この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、青柳正美、秋山邦晴浅利慶太安倍寧有坂愛彦一柳慧石原慎太郎井上靖大江健三郎梶山季之曽野綾子高橋義孝武満徹谷川俊太郎團伊玖磨中島健蔵黛敏郎三島由紀夫村野藤吾山本健吉由起しげ子が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し[77][78]、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した[79]。小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。三島由紀夫は『朝日新聞』翌1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて[80]」という一文を発表し、

「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」
「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」

と、小澤を擁護した。

和解の成立

結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。しかし「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」(先のドキュメンタリーでの発言)ほどのショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している[81]

32年ぶりの共演

1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。このコンサートは、日本オーケストラ連盟主催による、身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会であり、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに迎え、以下の曲目を演奏した。

なお、小澤はこのコンサートを引き受けた理由として「ロストロポーヴィチから、いつまでもN響と喧嘩しているべきではないとたしなめられた」「(「小澤事件」を知る)昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから引き受けた」という趣旨の発言をしている。

NHK音楽祭2005

2005年10月26日には、小澤とN響はNHK音楽祭で再び顔合わせをした。マーカス・ロバーツ英語版を共演者に迎え、「子供たちのためのコンサート」と銘打たれたこのコンサートの当初発表されていた曲目は、次のような1時間で収まるプログラムであった。

しかし、打ち合わせが山場を越えた段階になっても、どういう曲目にするかは第5番以外は決まっていなかったようである。最終的には「『ラプソディ・イン・ブルー』は、よりジャズ的な要素が強いが内容は難解なピアノ協奏曲ヘ調に差し替えられ、それに伴って出演者もマーカス・ロバーツ単身ではなく、トリオそろっての来日となった。またNHKが千住明に依頼していたNHK放送80周年記念の委嘱作品『日本交響詩』の初演の場を探していたこともあり、結局以下のような2時間を超えるか超えないかという、「子供向け」にしては盛り沢山なプログラムになった。

  • ベートーヴェン:交響曲第5番(全楽章)
  • ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 ヘ調
  • 千住明:『日本交響詩』

コンサートは小澤が時々演奏を止めて曲の解説をするスタイルであり、コンサートの最後は『さくらさくら』の大合唱で締めくくられた。


注釈

  1. ^ その後、世田谷区には2019年時点でも居住[10]
  2. ^ ただし吉田秀和によると、このとき小澤が卒業できなかったのは「小澤にはまだ第九を教えていない。第九を勉強させないで指揮科を卒業させるわけにはいかない」との斎藤秀雄の意向によるものだったという[16]
  3. ^ NHKの音楽プロデューサー細野達也が小澤の日本フィルの指揮ぶりを聴いて「N響にも欲しい」と思い、N響副理事長の有馬大五郎や事務長の木村竜蔵を説得し、小澤の抜擢に至ったという[21]
  4. ^ なお、ボストン交響楽団を初めて指揮したのは同楽団音楽監督就任の約5年前にあたる1968年1月、同楽団のホームグラウンドであるボストン・シンフォニーホールで開催された同楽団公演に於いてのことである[23]
  5. ^ 高等学校音楽科に限って、男女共学である。
  6. ^ 美樹(ヴェラ)の父方祖父母は二人ともロシア人である[64]
  7. ^ N響事件の後、小澤は「指揮者は本当に大変なことをやっている」という言葉を繰り返すようになった[70]

出典 

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  5. ^ ただし、母親の小澤さくらによれば、夫の開作がその命名を板垣に伝えたところ、「二人の名前を並べるなら石原のほうが偉いんだから『爾征』とつけなきゃいけない』と言われたらしい。小澤さくら『北京の碧い空を わたしの生きた昭和』58頁。
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