小澤征爾 人物・生涯

小澤征爾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 04:56 UTC 版)

人物・生涯

1963年

生い立ち

満洲国奉天省奉天市(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)で生まれる。父小澤開作歯科医師満洲国協和会創設者の一人で、同志で満洲事変の中心人物であった板垣征四郎石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した[4][5]。1941年3月に父を満洲に残したまま母や兄と日本へ戻り、東京府立川市の若草幼稚園に入園[6]する。1942年4月に立川国民学校へ入学[6]する。1945年に長兄でのち彫刻家になる小澤克己からアコーディオンピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価で譲られたピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄の克己と次兄の俊夫が3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

1947年に父が友人とミシン会社を始め、神奈川県足柄上郡金田村へ転居[6]する。1948年4月に成城学園中学校へ入学[7]し、小田急小田原線新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学した[7][8]。中学ではラグビー部に所属して3番プロップで活動しつつ、豊増昇からピアノを習う[7]。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの雨の試合でスクラム時に右手人差し指を骨折してピアノを断念[9]する。1950年秋に東京都世田谷区[注 1]代田へ転居[11]し、以後1951年から1952年は東京都世田谷区経堂[12]、1952年から1955年は東京都渋谷区笹塚[12]、1955年から1959年は神奈川県川崎市幸区戸手町[12]、それぞれで育つ[11]

1950年代

1951年に成城学園高校へ進学して齋藤秀雄の指揮教室に入門し、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として1952年に入学[11]する。同門に秋山和慶山本直純羽仁協子、久山恵子がいる[13]。癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたり楽譜を投げつけられたりするなど体罰を日常的に受け、ストレスのあまり小澤は自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をした[14]。1955年に齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学音楽学部へ進学して1957年夏に卒業[15]する。夏期の卒業は、肺炎を患い卒業試験を受験できず[注 2]、のちに追試を受けて卒業が認められた事からであるが、療養期間中は仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだ[17]。このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが後になって大変役立った、と語る[17]

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団で指揮棒を振り始めて北海道演奏旅行で指揮者を担当[18]する。1957年12月に日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル『子供と魔法』で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める[18]。1958年に「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる[12]も、成城学園時代の同級生の父である水野成夫らの援助で渡欧資金を調達[19]する。

1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスへ渡る。このとき、アシスタントの小澤を失うことを恐れた齋藤から渡欧に猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫らから支援を得て、約45万円相当の1200ドルを餞別として受けた[20]パリ滞在中の1959年に、第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。ヨーロッパのオーケストラに多数客演。カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。1960年、アメリカ・ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨーク・フィルの来日公演に同行。カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

1960年代

1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始[注 3]するが、感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任[22]する。このため日本では音楽活動をしないと決めて渡米した。32年後の1995年1月にNHK交響楽団と共演した。

1964年、シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡る。シカゴ交響楽団とはRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音を残した。日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮して海外の一流レコード会社からクラシック音楽録音を海外市場向けに複数発売したことは画期的な出来事であった。

1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任し1968年まで務める[23]。1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。

この時期は作曲家の武満徹と親交を大きく持ち、深い友情関係を築いた。武満の死後も武満作品を演奏する機会が多かった。

1970年代

1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し1976年まで務めた。

1972年には、フジサンケイグループによる突然の日本フィルハーモニー交響楽団の解散後、楽員による自主運営のオーケストラとして新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。小澤は指揮者として中心的な役割を果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年9月から桂冠名誉指揮者となっている。1972年に日本芸術院賞を受賞している[24]

1973年、38歳のとき、前出のニューヨーク・フィルおよびシカゴ響と共にアメリカ五大オーケストラの一つに数えられるボストン交響楽団の音楽監督(第13代)に就任[23][注 4]。当初はドイツグラモフォンとの契約でラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けた。その後グスタフ・マーラー交響曲全集(『大地の歌』を除く)など、フィリップスへの録音を行った。日本のクラシックファンにとっては、日本人指揮者の演奏をアメリカから逆輸入する形で聴くこととなり、また日本人指揮者の演奏が国際的に有名なレーベルから発売されるのは初めてであった。またボストンでの活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。

ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことといわれる[25][26]。その30年近くに及ぶ音楽監督期間中、少なくとも1978年3月、1981年秋、1986年、1989年にはボストン響を率いて来日し、日本公演を実施したほか、1979年3月には中国でも同楽団を率いての公演を行っている[23]

タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して日本の電気メーカーNEC、ソニー元社長の大賀典雄などの援助により“SEIJI OZAWA HALL”が建設された。

なお、アメリカを本拠にしての音楽活動が長かったため、アメリカ国内及び海外のマスコミでは「小澤征爾は日系アメリカ人(Japanese-American)」と記述する例もある[27]

1980年代

1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラ結成のきっかけとなる。1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功を収める。1992年からはサイトウ・キネン・オーケストラの音楽監督として活動を開始。このオーケストラでもフィリップスへの録音を多く行っており、今までにベートーヴェンブラームスの交響曲全集などを完成させている。

1990年代

1992年にベルリン・フィルから、楽団に功績のあった人物に贈られるハンス・フォン・ビューロー メダル英語版を授与された。

1998年に長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式では、小澤指揮によるベートーベン第九を演奏。開会式会場と世界5大陸の都市(北京ニューヨークシドニーベルリンケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結ぶ。同年、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受賞[28]

1999年、小沢征爾とサイトウ・キネン・フェスティバル松本実行委員会が、第47回菊池寛賞を受賞した。

2000年代

2002年1月、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは世界同時生中継され、CDの売り上げ枚数は100万枚を超えた。2002年シーズンにウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。

2005年暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術を受けた。

2006年1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院しながら静養していた。2006年1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇『イドメネオ』の指揮はキャンセルされた。

2006年2月1日、ウィーン国立歌劇場音楽監督としての活動を一時休止。東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディ『オテロ』の公演もキャンセルすると発表した。

2006年6月、スイス西部モントルー近郊ブロネ英語版で開催された「スイス国際音楽アカデミー(: Seiji Ozawa International Academy Switzerland)」にて指揮活動を再開。また、7月20日には「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演にてマーラーの交響曲第2番『復活』を指揮し、日本国内での指揮活動を再開した。2006年度のサイトウ・キネン・フェスティバル松本、2007年4月にベルリン・フィルを指揮をしている。

2007年、ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダー英語版の2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー英語版、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。

2008年、世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受章した[29]

2010年1月、人間ドックの検査で食道癌が見つかり治療に専念するために、同年6月までの活動を全てキャンセルすることを発表した[30]。食道全摘出手術を受け、同年8月に復帰。同年開催のサイトウ・キネン・フェスティバル松本は一部プログラムで代役を立て総監督として出演。

2010年代

2010年11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された[31]

2011年1月、悪化した腰の手術を受ける。

2012年3月7日、体力回復のため、1年間の指揮活動の中止を発表[32]

2012年8月31日、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞受賞。

2013年4月1日、前年死去した吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任[33]

2014年8月4日 長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(SKF)」が翌2015年から、小澤征爾の名を冠した「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に生まれ変わることになったことを、実行委員会が東京都内で記者会見して明らかにした。

2015年7月、ケネディ・センター名誉賞を受賞。日本人では初の受賞となる[34]

同年8月、セイジ・オザワ松本フェスティバル開催。腰椎棘突起および横突起骨折により、ベルリオーズオペラベアトリスとベネディクト』を降板[35]長野県名誉県民栄誉賞の第1号を受賞[36]

2016年2月、自らが指揮する歌劇『こどもと魔法』(ラヴェル作曲)を収めるアルバムが第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞した[37][38]

2016年3月、成城大学初となる名誉博士号を贈呈された。記念式典ではサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団メンバー、成城学園にゆかりのアーティスト達が集結し、『S.オザワ祝典アンサンブル』を結成した[39]

2016年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された[40]

2016年10月、名誉都民に顕彰される[41][42]2016 GQ Men of the Yearを受賞[43]

2018年12月5日、サントリーホールで行われたドイツ・グラモフォン創立120周年 スペシャル・ガラ・コンサートにて、サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28を指揮。 (ヴァイオリン:アンネ=ゾフィー・ムター[44]

2020年代

2022年11月23日、キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)においてサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を4年ぶりに指揮した。演奏ではそのとき、国際宇宙ステーション(ISS)「きぼう」でミッションにあたる宇宙飛行士の若田光一に向けて、ベートーヴェンの「エグモント序曲」のライブ配信が行われた。宇宙へのオーケストラ演奏のライブ配信は史上初であった[45]。なお、直後の同月25日・26日に行われたセイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称: サイトウ・キネン・フェスティバル松本)30周年記念特別公演の指揮はアンドリス・ネルソンスが行った(25日公演のカーテンコールの際、車椅子に乗った小澤が登壇した)[46][47]

2024年1月23日、元妻である江戸京子が死去[48]。同年2月6日、東京都内の自宅で心不全のため死去[49]。88歳没[50]。訃報は9日に所属事務所から報じられた[49][51]

2024年2月6日、ボストン交響楽団は小澤を追悼し

「With great sorrow, the Boston Symphony Orchestra announces the death of its beloved Music Director Laureate, Seiji Ozawa.」[52]
訳「ボストン交響楽団は、深い悲しみとともに、敬愛する桂冠音楽監督、小澤征爾氏の逝去を発表します。」

と始まる長文で哀悼の意を公式サイトのトップおよび特集ページに掲載。一部抜粋「親切で思慮深い人道主義者、指揮台でのバレエのような優雅さと天才的な記憶力を兼ね備えた音楽の天才」「セイジは世界中のファンにとって、これらすべて、そしてそれ以上の存在だった。彼の遺産は、私たちの集団的、個人的な多くの思い出と、彼の忘れがたい録音を通して生き続けています。マエストロ・オザワのご家族、ご友人、そしてクラシック音楽界に深い哀悼の意を表します」と称え、偲んだ[53]。ほかにもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューヨーク・フィルハーモニックシカゴ交響楽団や国内のオーケストラなど、世界中のオーケストラから追悼の声明が寄せられ、世界中の音楽家がメッセージを出した。音楽以外の分野からも、谷川俊太郎横尾忠則安藤忠雄黒柳徹子村上春樹らがコメントを出した。

訃報は国内外の多くのメディアで報じられ、ニューヨーク・タイムズワシントン・ポストガーディアンなどは長い追悼記事を出し、「東アジアのクラシック音楽家に対する偏見を払拭することに貢献した(ニューヨーク・タイムズ)」などと、その功績を讃えた。


注釈

  1. ^ その後、世田谷区には2019年時点でも居住[10]
  2. ^ ただし吉田秀和によると、このとき小澤が卒業できなかったのは「小澤にはまだ第九を教えていない。第九を勉強させないで指揮科を卒業させるわけにはいかない」との斎藤秀雄の意向によるものだったという[16]
  3. ^ NHKの音楽プロデューサー細野達也が小澤の日本フィルの指揮ぶりを聴いて「N響にも欲しい」と思い、N響副理事長の有馬大五郎や事務長の木村竜蔵を説得し、小澤の抜擢に至ったという[21]
  4. ^ なお、ボストン交響楽団を初めて指揮したのは同楽団音楽監督就任の約5年前にあたる1968年1月、同楽団のホームグラウンドであるボストン・シンフォニーホールで開催された同楽団公演に於いてのことである[23]
  5. ^ 高等学校音楽科に限って、男女共学である。
  6. ^ 美樹(ヴェラ)の父方祖父母は二人ともロシア人である[64]
  7. ^ N響事件の後、小澤は「指揮者は本当に大変なことをやっている」という言葉を繰り返すようになった[70]

出典 

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  2. ^ Liste der Ehrenmitglieder der Wiener Staatsoper
  3. ^ 「小沢征爾さん ウィーン・フィル名誉団員に 「どんな勲章よりうれしい」」『読売新聞』2010年11月3日 東京朝刊 33頁。
  4. ^ 岡崎久彦『百年の遺産:日本近代外交史73話』産経新聞ニュースサービス、2002年、181頁
  5. ^ ただし、母親の小澤さくらによれば、夫の開作がその命名を板垣に伝えたところ、「二人の名前を並べるなら石原のほうが偉いんだから『爾征』とつけなきゃいけない』と言われたらしい。小澤さくら『北京の碧い空を わたしの生きた昭和』58頁。
  6. ^ a b c 山田 2006, p. 20.
  7. ^ a b c 山田 2006, p. 23.
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  16. ^ レコード芸術編『吉田秀和 音楽を心の友と』p.38(音楽之友社、2012年)
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