多賀城市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 02:12 UTC 版)
概要
旧宮城郡の範囲に当たる。仙台市の北東側に隣接するため、そのベッドタウンとしての性格も持ち合わせている。仙台市への通勤率は43.2パーセント(平成22年国勢調査)。
地名の由来
地理
位置
仙台市の北東に位置し、市街地は丘陵地帯上にある。市名の由来は古代国府の多賀城よりとられている。1942年(昭和17年)に海軍工廠が設置されて以降、市南部に工業立地が進んだ。仙台港の開港もこれに拍車をかけている。町は街道(国道45号)沿いに発展してきたため、商店はロードサイド店が多く、市の中心部が存在しないという特徴をもつ。仙台市中心部より鉄道をはじめアクセスが良好であることから、仙台都市圏の一角をなすベッドタウンとしても位置付けられ、市西部の水田地帯では住宅地の造成が進められている。1960年代には仙台市や多賀城町(当時)を含む広域合併を目指す仙塩合併議論もあったが、多賀城町が合併協議会から離脱してこの時の合併計画はなくなった。
地形
河川
- 主な川
- 主な運河
湖沼
- 主な沼
地域
住宅団地
- 多賀城ニュータウン
- 高橋コンフォートタウン
- 志引ニュータウン
人口
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.53パーセント減の62,096人であり、増減率は県下35市町村中12位。40行政区域中17位。
多賀城市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 多賀城市の年齢・男女別人口分布(2005年) | ||
■紫色 ― 多賀城市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | ||
多賀城市(に相当する地域)の人口の推移 | |||
総務省統計局 国勢調査より |
隣接自治体・行政区
歴史
先史
- 縄文時代
縄文時代前期には金堀貝塚があり[1]、晩期には松島湾に近い橋本囲貝塚などで盛んに製塩土器を使った塩作りが行なわれた[2]。 後の多賀城市域に限らず、松島湾沿岸は貝塚と製塩土器・遺構が集中して分布する地域であった。
- 弥生時代
弥生時代には、市内の五万崎地区から石包丁が出土している[3]。枡型囲貝塚で見つかった籾の痕跡を残した土器は、山内清男の論文「石器時代にも稲あり」を生み、考古学史上著名である[4]。市内の低地で水田稲作が営まれたと考えられるが、住居は見つかっていない。
古代
- 古墳時代
古墳時代から竪穴建物の集落が確認できる。山王遺跡と隣接する新田遺跡は一続きの大きな集落で、他に高崎遺跡があり、後に多賀城廃寺が造られる場所にも小さな集落があった[5]。 付近には水田跡も見つかっている[6]。海岸の大代地区には漁業に従事する人々が暮らしていたようである[7]。
古墳時代の前期には、五万崎地区に方形周溝墓が営まれた[8]。古墳としては小型の円墳である稲荷殿古墳や丸山囲古墳が築かれたが、前者は7世紀後半、後者は年代不明である[9]。稲荷殿古墳が作られた時期には、崖に大代横穴墓群、橋本囲横穴墓群、田屋場横穴墓群といった横穴墓が盛んに作られた[10]。
- 奈良時代
- 古代の陸奥国府
それまで郡山遺跡にあった陸奥国府は、神亀元年(724年)に造営なった多賀城に移ったと推定されている[注釈 1]。しかし、720年代末期には石背国・石城国・陸奥国は合併され、現在の福島県から宮城県に及ぶ広い陸奥国が復活したが、多賀城はその広い陸奥国の国府であり続けた。
多賀城には9世紀初めまで鎮守府も置かれ、出羽国まで含めた東北地方の政治・軍事の中心都市であった。日本全体の中でも、西の大宰府に対応する東の政治都市として重要な位置にあった。
城郭の南には町が広がり、当時七北田川が合流して流量が多かった砂押川に橋がかけられ、舟による運送があった。
奈良時代から平安時代はじめまで断続的に続いた蝦夷との戦いの中で、宝亀11年(780年)には伊治呰麻呂の反乱で攻め寄せてきた軍勢により略奪放火されたが、すぐに再建された[13]。
中世
多賀城は平安時代の10世紀半ばまで機能したが、発掘調査ではその後国府にあたるような規模の痕跡が見つかっていない。にもかかわらず多賀国府は南北朝時代まで依然として史料に現われるので、国府は多賀城のそばで中世都市の遺跡がある仙台市宮城野区岩切あたりに移動したと考えられている。
文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、頼朝は伊沢家景と葛西清重を奥州惣奉行に任命した。伊沢家景は陸奥国留守職となり、多賀国府の留守所長官となった。その子孫は留守氏を称するようになり、現在の多賀城市を含む近隣を支配した。市域の南部には、在庁官人系の陸奥介氏(後に八幡氏)が所領を持った。
留守氏、八幡氏など国府付近の武士は、規模としては小さく、南北朝時代、戦国時代の争乱の中で自ら奥州の覇を争うことはできなかった。八幡氏は戦国時代に留守氏の家臣になり、留守氏は伊達氏に服属した。
近世
- 安土桃山時代
伊達氏はおおよそ現在の山形県南部、福島県、宮城県南部を領土としていたが、伊達政宗が扇動した葛西大崎一揆の後、豊臣秀吉の仕置きによっておおよそ宮城県、岩手県南部へと北へ追いやられ、天正19年(1591年)に政宗は岩出山城を居城とした。 慶長5年12月24日(1601年1月28日)より伊達政宗は仙台城を居城として仙台藩62万石を築いた。
- 江戸時代
これ以降明治4年(1871年)の廃藩置県まで、現在の多賀城市域を含む宮城郡は仙台藩の一部となる。尚、現在の多賀城市八幡地区に当たる八幡村には伊達家の準一家である天童氏が居館を置き、一帯を治めた。
近現代
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、宮城郡新田村、山王村、南宮村、高橋村、浮島村、市川村、高崎村、八幡村、東田中村、留ヶ谷村、下馬村、笠神村及び大代村の区域をもって、多賀城村が発足する。
- 1951年(昭和26年)7月1日 - 町制施行して、多賀城町となる。
- 1964年(昭和39年)3月3日 - 多賀城町を含む仙台湾地区が新産業都市に指定される。
- 1969年(昭和44年)1月10日 - 現在の市章である町章を制定する[14]。
- 1971年(昭和46年)11月1日 - 市制施行して(県下9番目)、多賀城市となる。
- 1998年(平成10年)12月1日 - 仙台市及び多賀城市の区域の境界の変更をする。
- 2009年(平成21年)4月1日 - 仙台市及び多賀城市の区域の境界を変更する。
- 2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災により被災。662ヘクタール(市域の約33.7%)が津波により浸水、市内では死者188人を数えた。[15]
- 2013年(平成25年)7月1日 - 仙台市及び多賀城市の区域の境界を変更する。
利府町 塩竈市 | ||||
七ヶ浜町 | ||||
多賀城市 | ||||
仙台市 |
- ^ 『多賀城市史』第1巻103頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻126頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻159頁。
- ^ 山内清男「石器時代にも稲あり」、『人類学雑誌』第40巻5号、1925年。
- ^ 『多賀城市史』第1巻186-193頁、205頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻194頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻196-197頁、205-206頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻180頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻181-182頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻182頁。
- ^ 『続日本紀』巻第8、養老2年(718年)5月乙未(2日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』二の44-45頁。高倉敏明『多賀城跡』31-32頁。『多賀城市史』第1巻218-219頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻225-233頁。鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』57-59頁。
- ^ 『続日本紀』宝亀11年3月丁亥(22日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』五の138-141頁。鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』118-120頁。高倉敏明『多賀城跡』47-49頁に政庁、56-59頁に門、64-66頁と68頁にその他官衙の焼失と再建の説明がある。
- ^ 図典 日本の市町村章 p35
- ^ “多賀城市における東日本大震災の被害状況概要”. 多賀城市. 2023年1月3日閲覧。
- ^ 平成22年第1回多賀城市議会定例会会議録(2010年3月2日)
- ^ 宮城県多賀城市、CCCとの連携で2015年夏に新・市立図書館オープンへ
- ^ “<ツタヤ図書館>書店とカフェ併設 オープン”. 河北新報. (2016年3月22日). オリジナルの2016年4月25日時点におけるアーカイブ。 2016年3月27日閲覧。
- ^ “友好都市福岡県太宰府市”(多賀城市)2020年4月30日閲覧。
- ^ “友好都市山形県天童市”(多賀城市)2020年4月30日閲覧。
- ^ “友好都市奈良県奈良市”(多賀城市)2020年4月30日閲覧。
- ^ 多賀城市 市内を走るバス おでかけバス「万葉号」
- ^ 多賀城市 市内を走るバス 多賀城市西部を走るバス「多賀城西部線」
- ^ 多賀城市西部を走るバス「多賀城西部線」(平成25年7月28日改定)(多賀城市ホームページ)
- ^ a b 広報多賀城4月号折り込みチラシ(西部線) (PDF)
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