多賀城の設置と、城柵の規格化
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「城柵」の記事における「多賀城の設置と、城柵の規格化」の解説
第II段階の城柵は、8世紀前半に造営されたものであり、多賀城や秋田城に代表される、丘陵地上に不整ながら方形を意識した外郭を構える、二重の囲繞施設を持つ城柵である。 多賀城(創建当初は「多賀柵」。現在の宮城県多賀城市に所在)は神亀元年(724年)、大野東人によって創建された。重ねて述べるとおり多賀城造営の背景には養老4年の蝦夷の大反乱があり、朝廷の東北政策再構築の一環として構築されたものである。したがって当初より石背・石城両国の再併合後の新たな陸奥国府かつ鎮守府としての役割が期待された。多賀城では郡山遺跡II期で確立された都に倣う官衙要素を発展的に継承し、かつ軍事的な拠点性を高め、以降の城柵に大きな影響を与えた。 周囲との比高差がほとんどない郡山遺跡に対し、多賀城は低丘陵上に位置し、仙台平野を見渡せる位置にあった。また、地形上の制約のため外周は歪んだ方形となっており、おおむね敷地中央に、整った方形の内郭が築かれて政庁が置かれた。塀で囲まれた政庁の周囲に実務官衙や兵舎を置き、更に外周を塀で囲う二重構造城柵は、まさしく多賀城で確立したものであり、以降の城柵の基本様式となる。この多賀城をモデルとして造営されたとみられるのが天平5年(733年)出羽国に築かれた秋田城(第II次出羽柵)であり、内郭施設内の建物配置および正殿・脇殿の面積はおおむね多賀城I期と共通する。ただし、多賀城正殿では四面に廂をめぐらす一方、秋田城正殿では正面の南側にだけ廂を配置し簡素化するなどの差異もみられる。
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