多賀城の設置と、城柵の規格化とは? わかりやすく解説

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多賀城の設置と、城柵の規格化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)

城柵」の記事における「多賀城の設置と、城柵の規格化」の解説

II段階城柵は、8世紀前半造営されたものであり、多賀城秋田城代表される丘陵地上に不整ながら方形意識した外郭構える、二重の囲繞施設を持つ城柵である。 多賀城(創建当初は「多賀柵」。現在の宮城県多賀城市所在)は神亀元年724年)、大野東人によって創建された。重ねて述べるとおり多賀城造営背景には養老4年蝦夷の大反乱があり、朝廷東北政策再構築一環として構築されたものである。したがって当初より石背石城両国再併合後新たな陸奥国府かつ鎮守府としての役割期待された。多賀城では郡山遺跡II期確立され都に倣う官衙要素発展的に継承し、かつ軍事的な拠点性を高め以降城柵大きな影響与えた周囲との比高差がほとんどない郡山遺跡対し多賀城は低丘陵上に位置し仙台平野見渡せ位置にあったまた、地形上の制約のため外周歪んだ方形となっており、おおむね敷地中央に、整った方形内郭築かれ政庁置かれた。塀で囲まれ政庁周囲実務官衙兵舎を置き、更に外周を塀で囲う二重構造城柵は、まさしく多賀城確立したものであり、以降城柵基本様式となる。この多賀城モデルとして造営されとみられるのが天平5年733年出羽国築かれ秋田城(第II出羽柵)であり、内郭施設内の建物配置および正殿脇殿面積おおむね多賀城I期共通する。ただし、多賀城正殿では四面に廂をめぐらす一方秋田城正殿では正面南側にだけ廂を配置し簡素化するなどの差異みられる

※この「多賀城の設置と、城柵の規格化」の解説は、「城柵」の解説の一部です。
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