千日デパート火災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:45 UTC 版)
消火活動および救出活動
消防隊による消火救出活動および警察による警備活動の経過
22時40分、大阪市消防局警防部警備課指令第1係が千日デパート保安係から119番通報を以下の内容で受信した[212][213]。
消防局 「こちら119番です」
通報者 「千日デパートビル火事です」
消防局 「何階が燃えているのか」
通報者 「3階が火事です」
消防局 「電話は何番ですか」
通報者 「××××(電話番号)、保安係(氏名も名乗ったが不明確で確認できず)[注釈 36]」
消防局 「わかりました」[212][246]
大阪市消防局は火災通報をただちに受理した[212]。
なお火災通報時の気象状況は、天候=曇り(雲量10)、風向=東北東、風速=5.5メートル、気温=摂氏17.9度、湿度=69パーセント、実効湿度=63パーセントであった[320]。
22時41分、「ミナミ千日デパート3階出火」の一報を指令室より管内全消防署に発報。第1次出場が指令された[261]。
22時42分、南消防本署[注釈 37]および南消防署・各出張所より第一陣が出場した。千日デパートからもっとも近い東側200メートルに位置していた南消防署・南阪町無線付き普通ポンプ車分隊(PR)と同救出車分隊(R)の2個分隊と、北側200メートルに位置していた南消防署・道頓堀PR分隊が、それぞれ現場に急行し、デパートビル50メートル手前まで差しかかったところで同ビル北側の窓から黒煙が噴き出しているのを確認し、南阪町分隊は「煙気あり」を即報。走行中に「第2次出場」を要請した[238]。
22時43分、南消防署・南阪町および同道頓堀分隊が火災現場に到着。放水準備作業が開始された[238]。
22時44分、南消防本署・はしご車分隊(L)、同無線付きポンプ車分隊(PR)、同水槽付きポンプ車分隊(T)、同スノーケル車分隊(S)の各隊が現場に到着した[321]。消防指揮者は千日デパート保安係員に対し、消火活動のためにデパート北東正面出入口とE北西出入口のシャッターを開けるよう命じた[212]。さらに消防指揮者は、デパートビル北側に特殊車両を配置するよう指示した[261]。出入口シャッターが開放されたと同時に7階プレイタウンの窓から要救助者50人から60人が身を乗り出した[238]。
22時45分、南消防本署・はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[322]。南消防署・上町PR分隊が現場に到着した[323]。同時刻に大阪府警は110番通報を受信した[308]。
22時46分、南消防署各隊により延焼階に対して放水が開始された[261]。南消防署・救急隊は、7階に10人以上の要救助者を認めたことから、大阪市消防局管内すべてのはしご車の出動を要請した[261]。
22時47分、指令室より特別出動態勢が発令された[261]。南消防本署・はしご車分隊は、7階ホステス更衣室窓で救出活動を開始した。同窓から女性2人を救助した[322]。その後、13分間にわたり救出活動を行った[322]。南阪町PR分隊は、7階北東角の窓から投下された救助袋が2階ネオンサインに引っかかったため、はしごを立てかけて登上し、地上へ降ろす作業を行った[212]。
22時48分、南消防署・南阪町PR分隊が「第3次出場」を要請した[261]。大阪府警は、火災現場に警察官を派遣し、現場付近一帯の交通規制を開始した[308]。
22時49分、南消防署・南阪町PR分隊は、20人程度の通行人に地上に降ろされた救助袋先端部分(出口)の把持の協力を要請した[212]。
22時50分、「第3次出場」が発令された[261]。第2次出場の東消防署・本町PR分隊、南消防署・恵美須TR分隊(無線付きTポンプ車)および同立葉T分隊(無線なしTポンプ車)、西消防本署・T分隊、特別出場の天王寺消防本署・S分隊が現場に相次いで到着した(47分から50分の間)[321]。
22時51分、西消防本署・はしご車分隊が現場に到着した[322]。方面隊は、約5分間にわたって7階プレイタウンからの脱出者に対し、ハンドマイクで「飛び降り制止」と「救助袋の正しい使用方法」を呼びかけた[212]。
22時52分、西方面隊より「7階で20人から30人の要救助者を確認した」と報告が入る[261]。東消防本署[注釈 38]・はしご車分隊が現場に到着した[322]。特別出場の西消防署・九条PR分隊が現場に到着した。
22時53分、西消防本署・はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[322]。
22時54分、西方面隊より「7階で50人から60人の要救助者を確認した」と報告が入る[261]。西消防本署・はしご車分隊は、7階北東中央窓から救出を開始した。13分間に10人を救出した[322]。阿倍野消防本署・はしご車分隊が現場に到着した[322]。
22時55分、南方面隊から「7階窓から飛び降りた者が10人」と報告が入る。東消防本署・はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[322]。阿倍野消防本署・はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[322]。北消防本署・はしご車分隊が現場に到着した[322]。北消防本署・R分隊が現場に到着した。
南消防署・道頓堀PR分隊は、デパートビル6階のボウリング場工事現場にアセチレンガスボンベ40キログラム1本と酸素ボンベ同2本が放置されていると報告した[261]。
南阪町PR分隊は、15人程度の通行人の協力を得てサルベージシート(救助幕)を設置し、救助袋から落下してくる者の救助を開始し、3人を救助した[212]。その後に同分隊は、はしご車からの落下に備えて23時15分まで救出活動を行った[212]。
22時56分、西成消防本署・PR分隊と同屈折放水塔車分隊(W)が現場に到着した[324]。南方面隊は、大阪府警に対し雑踏警備や交通整理などのために機動隊の出動を要請した[308]。阿倍野消防本署・はしご車分隊がバンドマン室窓で救出活動を開始し、18分間に20人を救出した[322]。
22時57分、北消防本署・はしご車分隊は、はしごの伸長を開始した[322]。天王寺消防本署・排煙車分隊(SE)が現場に到着した[324]。
22時58分、南方面隊から「ビル7階北東部窓より12人が飛び降りた」と報告が入る。北消防本署・はしご車分隊は、タレント室窓および厨房窓で救出活動を開始し、10分間に10人を救出した[322]。
22時59分、第3次出場の西成消防署・津守PR分隊、天王寺消防本署・T分隊、南消防署[注釈 38]・浪速PR分隊、北消防署・南森町PR分隊[注釈 39]、東消防署・東雲P分隊(無線なし普通ポンプ車)、大正消防署・泉尾TR分隊が相次いで現場に到着した(53分から59分までの間)[325]。
23時、住吉消防本署・はしご車分隊が現場に到着し、ビル南側に部署し2階ないし4階の消火作業をおこなった[326]。
23時1分、西方面隊から「7階に要救助者が20人から30人いる」と報告が入る[261]。東消防本署・はしご車分隊は、ビル東側2か所および北東角(救助袋投下窓)の計3個所の窓で救出活動を開始し、23分間に10人を救出した[322]。大阪府警機動隊1個中隊が火災現場に到着した[308]。
23時3分、東消防本署・S分隊および東消防署・東雲PR分隊が現場に到着した[326][注釈 40]。
23時4分、東成消防本署・R分隊が現場に到着した[326]。
23時5分、港消防本署・S分隊が現場に到着した。大阪市消防局は、デパートビル北側・千日前通の路上に現地指揮本部を設置した[308]。消防局長、警防部長、警備課長、各消防署長(計8消防署署長)が出場して方面指揮にあたった[308]。また4方面隊で情報収集を行い、人命救助、防御活動、広報活動を行った[308]。
23時7分、天王寺消防本署・PR分隊および港消防署・田中PR分隊が現場に到着した[326]。
23時8分、北消防本署・S分隊が現場に到着した。西方面隊より「デパートビル3,000平方メートルが延焼中」と報告が入る[261]。
23時9分、東消防署・今橋TR分隊が現場に到着した[326]。
23時10分、東消防本署・TR分隊および北消防署・浮田PR分隊が現場に到着した[326]。南方面隊から「40人程度をはしご車で救出中」と報告が入る[261]。
23時13分、東淀川消防本署・はしご車分隊が現場に到着し、ビル北側西寄りに部署して3階ないし5階の消火作業、5階および6階で人命探索活動をおこなった[326]。
23時15分、港消防署・田中P分隊が現場に到着した[326]。南消防本署・はしご車分隊は、救出活動を終了した[322]。
23時17分、阿倍野消防本署・PR分隊が現場に到着した[327]。
23時19分、都島消防署・東野田PR分隊が現場に到着した[327][注釈 41]。
23時20分、北消防本署・はしご車分隊の隊員2人がビル屋上に進入し、探索活動をおこなった[328]。
23時22分、西成消防署・海道TR分隊が現場に到着した[327]。
23時23分、生野消防署・勝山PR分隊が現場に到着した[327]。東消防本署・はしご車分隊は、救出活動を終了した[322]。
23時25分、東成消防本署・PR分隊、都島消防署・高倉PR分隊[注釈 42]、阿倍野消防署・晴明通PR分隊、東住吉消防署・股ヶ池PR分隊が現場に到着した[327]。西消防本署・はしご車分隊は、救出活動を終了した[322]。
23時29分、阿倍野消防本署・はしご車分隊は、救出活動を終了した[322]。
23時30分、北消防本署・はしご車分隊は、救出活動を終了した。消防隊は、右時刻を以ってすべての人命救出活動を終了した[261]。
23時32分、大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1にあたる85台(はしご車7台、救急車12台を含む)を投入した[42][329]。
23時35分、大阪府警は、機動隊1個中隊第2陣を火災現場に配備した[308]。
23時58分、阿倍野消防本署・サルベージ車分隊(SA)が現場に到着し、ビル2階で照明灯火作業をおこなった[327]。
14日0時過ぎ、火勢が衰え出す[261]。消防隊は火災鎮圧までの間、延焼階に対する消火活動と火災防御活動を継続した。
大阪府警は負傷者の搬送、捜査活動、警備隊などを現地指揮するための府警本部長を長とする現地警備本部を設置した[308]。
南消防署・道頓堀PR分隊から「デパートビル6階のボウリング場工事現場にガスボンベ3本が放置されている」「地下1階に重油タンクがある」「地下で都市ガス漏洩の恐れあり(大阪ガス係員情報)」との一報を受け[261][330]、大阪府警・警備本部は通行人らに対し千日前通からの避難命令を出した[308]。警察官の出動は総数1,008人にのぼり、負傷者の救護搬送、交通規制、雑踏警備にあたった[308][328]。
0時28分、城東消防本署・PR分隊が現場に到着し、地下街の浸水調査をおこない、その後にビル2階へ進入し消火作業をおこなった[327]。
1時12分、福島消防本署・P分隊が現場に到着し、各隊に対して燃料補給を実施した[327]。
2時ころ、大阪府警・南署は、出火当時ビル3階で電気工事に携わっていた工事作業員4人を署に呼び、任意で事情聴取を始めた[331]。
3時、北消防署・梅田PR分隊が現場に到着し、放水砲を輸送して南消防署・救助隊に渡した[327]。
4時1分、福島消防本署・SA分隊が現場に到着し、千日デパートビル地階および地下街「虹のまち」への浸水阻止作業を実施した[327]。
5時、南消防本署・はしご車分隊、同TR分隊および東淀川消防本署・はしご車分隊は、はしご車を使って7階窓からプレイタウン店内へ、または5、6階窓からビル内に進入し、内部探索を開始した[332]。
5時15分、大阪府警・機動隊1個小隊30人が7階プレイタウンへ内部探索に入った[292]。
5時20分、消防隊から「7階で31人の遺体確認。死者は更に増える見込み」と無線連絡が入る[333]。
5時43分、火災鎮圧[261]。
6時、大阪府警および大阪市消防局は、7階「プレイタウン」の現場検証を開始した[288]。
6時15分、7階を探索中の消防隊から「96遺体を確認。遺体に付ける番号札(エフ)が足りない」と無線連絡が入る[333]。
7時41分、火災は鎮火したと一旦は発表された。延焼範囲は、2階から4階までの8,763平方メートルだった[334]。大阪市消防局救急隊7隊は、現場検証終了後(9時30分)に7階から遺体搬出活動を行った[308]。
9時、大阪府警・鑑識課、科捜研、大阪市消防局が合同で3階出火元の現場検証を開始した。検証の結果、3階中央部東寄り売場の床が最も激しく燃えていたことから同場所を火元と断定した[292]。
15日0時15分ごろ、千日デパートビル6階中央部から白煙が噴き出しているのを通行人が目撃し119番通報した。大阪市消防局は消防車両8台を出場させ、同ビル6階窓と7階窓から放水し、小火程度で消し止めた[335]。大阪市消防局は、消火困難箇所および内在物品などの燻りがまだデパートビル内に残っていると判断し、消火および火災防御活動を再開した[299]。
15日17時30分、正式に火災鎮火と発表された[299][336]。
消防隊および救急隊の人命救出活動
はしご車は、大阪市消防局保有の8台のうちの7台が出場した。そのうち南消防本署、西消防本署、東消防本署、阿倍野消防本署、北消防本署の各はしご車分隊から1台ずつ計5台が出場し、人命救出活動にあたった[322]。住吉消防本署・はしご車分隊および東淀川消防本署・はしご車分隊の計2台は、デパートビル南側および北西側に配置され、主に消火防御活動に投入された[337]。
南消防本署・はしご車分隊の活動
南消防本署・はしご車分隊は、22時42分に出場、44分に現場に到着した。デパートビル北側西寄りに配置。45分、デパートビル7階ホステス更衣室窓にはしごを伸長。47分、救出活動開始。22時47分から23時までの13分間に、ホステス更衣室窓から女性2人を救助した。救助の際、窓がロッカーで半分塞がれており、斧でガラスを叩き割って失神している2人を引っ張り出して救助した。その後、同窓で15分間にわたり救助作業をおこなったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓および4階窓から放水し火災防御にあたった。ホステス更衣室窓際で死亡者7人を取り残す結果になった[338]。
西消防本署・はしご車分隊の活動
西消防本署・はしご車分隊は、22時44分に出場、51分に現場に到着した。デパートビル北東側正面に配置。53分、デパートビル7階北東側正面のプレイタウン中央部窓にはしごを伸長。54分、救出活動開始。22時54分から23時7分までの13分間に、失神状態の1人を含む要救助者3人をリフターで救助。さらに、はしご伝いに自力で降りてきた7人を救出。計10人(男性6人、女性4人)を救出した。その後、18分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓および4階窓から放水し火災防御にあたった。救出窓で死亡者はいなかった[328][339]。
東消防本署・はしご車分隊の活動
東消防本署・はしご車分隊は、22時44分に出場、52分に現場に到着した。デパートビル北東側正面東寄りに配置(アーケード入口前)。23時1分、北東側窓1か所(救助袋が設置された窓)にはしごを伸長、救出活動を開始した。順次、東側の窓2か所(商店街アーケードの真上)にはしごを移動し、23時1分から23時23分までの22分間に、合計3か所の窓から計8人(男性5人、女性3人)を救出した。そのうちの5人は、はしごに自力で乗って降下したが、2人は窓際で失神している状態のところを消防隊員に引っ張り出され救助に成功、1人はリフターで救助した。なお、はしごが伸長している最中に2人がはしごに落下してきて地面に墜落し死亡した。救出窓3か所で死亡者9人を取り残す結果となった。なお東消防本署・はしご車分隊は、救出活動終了後に2階、3階、7階に対して照明灯火作業を実施した。また2階窓および3階窓から放水し火災防御にあたった。この分隊は内部探索を行っていない[339]。
阿倍野消防本署・はしご車分隊の活動
阿倍野消防本署・はしご車分隊は、22時44分に出場、54分に現場に到着した。デパートビル北東側西寄りに配置。55分、デパートビル7階北東側西寄り窓(バンドマン室)にはしごを伸長、56分に救出活動を開始した。22時56分から23時14分までの18分間に救出活動をおこなった。まず最初にリフターで2人を救出し、次にはしご伝いに自力で降りてきた18人を救出。計20人(男性18人、女性2人)を救出した。その後、15分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓ないし5階窓から放水し火災防御にあたった。バンドマン室窓で死亡者3人を取り残す結果となった[328][339]。
北消防本署・はしご車分隊の活動
北消防本署・はしご車分隊は、22時42分に出場、55分に現場に到着した。デパートビル北側東寄りに配置。57分、デパートビル7階の北側東寄り窓(タレント室)にはしごを伸長、58分に救出活動を開始した。22時58分から23時8分までの10分間に、計10人(男性10人)を救出した。うち8人はタレント室窓からはしご伝いに自力で降下し、うち2人は厨房の窓際で失神しているところを消防隊に引き出されリフターで救助された。その後、22分間にわたり内部探索をおこなった。23時20分から10分間、消防隊員2人が屋上へ進入し探索活動をおこなった。延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は3階窓ないし5階窓から放水し火災防御にあたった。厨房窓で死亡者5人を取り残す結果となった[328][339]。
南阪町分隊の活動
南消防署・南阪町分隊は、砂袋(おもり)なしで地上に投下された救助袋が2階のネオンサインに引っかかったところを、消防隊員が二連はしごを立てかけて登り、袋の先端を地上に降ろした。その後、通行人に救助袋先端の把持を頼んだ。さらに消防車に積んでいたサルベージシートを救助幕として活用。通行人の協力を得てシートを広げ、22時55分から23時1分の7分間、7階窓から救助袋で脱出する途中に墜落してきた者3人(男性2人、女性1人)を救助することに成功した[282]。
そのほかの人命救出活動としては、出場第一陣(南消防本署・四分隊、南阪町分隊、道頓堀分隊)を中心にビル内部の探索を行い、7階はもちろんのこと、延焼階も含めて要救助者の捜索にあたった。消防隊の初期活動は、消火活動よりも人命救助優先で進められた。しかし、濃煙と暗闇により視界が利かず、また熱気により呼吸困難と熱傷に晒されたことからビル内部の探索を断念した。人命救助優先は、23時30分の救出活動終了が宣言されるまで継続されていた[322]。
救急隊の活動
救急隊の活動は、大阪市消防局の救急隊12隊(救急車17台)により[注釈 43]、負傷者を病院へ搬送した[308]。7階からの飛び降りや墜落者が出始めたころから救急搬送が活発化し、はしご車で救出された人たちが50人に達したころにピークを迎えた。搬送は合計25回で、56人の負傷者(即死同然の者も含む)を大阪市内13か所の病院へ救急搬送した[308]。担架隊は10隊が投入された[42]。遺体搬送には救急隊7隊が投入され[注釈 44]、搬送は合計33回に達し、96人の遺体を火災現場から遺体安置所の北区梅田・大融寺または南区・精華小学校まで搬送した[340]。
各消防隊の火災消火および火災防御活動
南消防署各隊の出場第一陣が22時43分に火災現場に到着し、22時46分から放水が開始された。その後に特別出場体制が発令され、第三出場に加えて特別出場まで行われた。千日前通には現地指揮本部が設置され、7時41分の火災鎮火[注釈 45]までの間に出場した消防隊は16隊(計16消防署)で、投入された消防車両(分隊)は合計85台(はしご車7台と救急車17台を含む)、出場した消防士は596人にのぼった(非番出場の100人を含む)[42]。投入された消防車両の内訳は、普通ポンプ車(PR)25台、普通ポンプ車(P)3台、水槽つきポンプ車(TR)7台、水槽つきポンプ車(T)4台、はしご車(L)7台、スノーケル車(S)5台、屈折放水塔車(W)1台、救出車(R)3台、排煙車(SE)1台、サルベージ車(SA)2台、方面隊車両4台、敏動隊車両(バイク隊)6台、救急車(A)17台である[341]。消火および防御活動に使用した水量は、消火栓25ヵ所から総量1,055万1,671リットルに達した[342][注釈 46]。消火および防御活動などに使用した燃料は、揮発油(ガソリン)で4,820リットル、補給量は2,980リットルだった。軽油で1,132リットル、補給量は440リットルだった[343]。消火および防御活動に夜通し尽力する消防隊員に対して食料が提供された。内訳は、パン1,100個、牛乳835本、折詰寿司355個であった[344]。
おもな分隊の活動
- 南消防署・道頓堀PR分隊[注釈 47]
- 南消防本署・PR分隊[注釈 48]
- 南消防本署・TR分隊[注釈 48]
- 南消防署・上町PR分隊[注釈 47]
- 南消防署・恵美須TR分隊[注釈 49]
- 南消防署・立葉T分隊[注釈 49]
- 南消防署・立葉PR分隊[注釈 49]
- 南消防本署・S分隊[注釈 48]
- 西成消防署・海道TR分隊
- 東消防本署・TR分隊[注釈 50]
- 西成消防署・津守PR分隊
- 大正消防署・泉尾TR分隊
注釈
- ^ 火災当時はデパートの敷地が二つの住所に跨っていて、東寄り4分の3が三番町一番地、西寄り4分の1が四番町一番地であった。現在の住所は大阪府大阪市中央区千日前2丁目10番1号。
- ^ 防火管理者らの業務上過失致死傷罪を裁いた刑事訴訟第一審判決の判決理由のなかで、大阪地裁は「本件火災は、工事監督が3階東側を歩いている際に煙草を吸い、その煙草若しくはこれに点火する際に用いたマッチの火が原因となって発生した疑いが濃厚であるが、工事監督の行動を証拠上確定することは出来ず、火災の原因は不明と言わざるを得ない」と述べたことによる。また大阪高等裁判所で開かれた控訴審判決の判決理由においても火災原因は不明とされた。
- ^ 大阪地裁第3民事部に対して大阪市消防局が回答文書を示し、1973年(昭和48年)9月28日付けの大阪市消防局・南消防署署長作成「火災原因決定意見書」で「火災原因は不明である」との決定が下された。大阪地検は、重過失失火などの容疑で書類送検した電気工事監督を不起訴処分としたことで、火災原因については「不明」と決定した。
- ^ 大阪府警察本部の検証結果では「本件火災は、3階で電気工事に携わっていた工事監督がタバコを吸う際に点火したマッチの擦り軸を火が消えていないままの状態で商品の布団の上に投げ捨てたことによって発生した(煙草の不始末)」と断定し工事監督を書類送検したが、証拠不十分などの理由により、被疑者を起訴するには至らなかった。
- ^ 内訳は、プレイタウン関係者47人、消防隊員27人、警察官6人、通行人1人である。
- ^ a b c d e 素人の女性がアルバイト感覚で客を接待する大衆サロンのこと。キャバクラの元祖。昭和30年代から40年代に掛けて、主に関西で流行った。別名アルサロとも呼ばれる。
- ^ a b c 死亡者数ベースにおいて最大のビル火災である。2022年時点でも最大である。
- ^ a b 日本国内で近現代に発災した建物火災全体では、1943年の布袋座火災で死者208人を出した被害が最大である。
- ^ 事件名、公文書、学術書、出版物においては「千日デパートビル火災」と呼ぶのが一般的である。
- ^ a b c 7階プレイタウンへ大量の煙が流入してきた22時42分から43分ごろにA1エレベーターで地下1階から7階へ昇ってきた男性客1人とホステス1人は、7階エレベーターホールに充満した煙に驚き、同エレベーターで地下1階へ脱出した状況が確認されているが、この2人についてはプレイタウン滞在者に含めていない。
- ^ 企業としては1996年にマイカルに社名変更、2011年にイオンリテールに吸収されて解散。店舗ブランドとしては1990年にサティに転換し消滅。
- ^ a b 千日デパートビルの延べ床面積は、資料によって数値が異なる。例えば大阪地裁の認定では2万7,514.64平方メートル、大阪高裁認定では2万6,227平方メートル、また大阪市消防局の調べでは2万5,923.81平方メートルなどとしている。これは屋上の床面積(塔屋1階と同一フロアのうち、外部を指す)を含めているか、また1階および2階床面積の解釈上の違いによって生じているものである。当記事では屋上の床面積を含めた大阪地裁の数値を使用している。資料によっては大阪市消防局の数値を四捨五入して2万6,500平方メートルとしているものもある。
- ^ 本件火災発生当時(1972年5月)の消防法施行令・別表1に定める防火対象物区分では、いわゆる「雑居ビル」「複合用途」という概念は明確にされておらず、当時の「16項」が規定していた用途とは「前各項(1から15項まで)に掲げる防火対象物以外の防火対象物で、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもの」であり、これはすなわち「店舗と住居を兼ねた建物」を念頭に置いたものであった。したがって千日デパートビルは、特定防火対象物「4項(=百貨店、マーケットその他の物品販売業を営む店舗又は展示場)」に分類されていた。
- ^ 現行(2022年)の消防法令に照らした場合、千日デパートビルは「16項(イ)=複合用途防火対象物のうち、その一部が劇場・集会場等、酒場・風俗店等、飲食店、百貨店・スーパーマーケット、旅館・ホテル、病院・養介護施設・保育園等、サウナにおいて、これらの防火対象物の用途に使われているもの」に相当するが、本件火災発生当時(1972年5月)の16項は「(イ)と(ロ)」に区分されていなかった。区分されたのは1972年12月の消防法施行令の改正からである。(ロ)とは「(イ)で掲げた複合用途防火対象物以外の複合用途防火対象物」のことである。
- ^ 南消防署提出の消防計画書による。消防計画書は毎年1回更新されていたが、1971年(昭和46年)5月更新の時点では7階プレイタウンは、千日デパートの自衛消防組織および防火管理責任組織に組み込まれていなかった。
- ^ プレイタウン1階専用出入口(B出入口)に直結したB階段昇り口には、木製扉が設けられていて、プレイタウン閉店時には同店従業員が7階B階段出入口と同時に同扉を施錠していた。
- ^ 1958年(昭和33年)当時は、全国共通の消防法施行令は制定されておらず、地方自治体が独自に定めた施行条例の基準で設置されていた。消防法施行令の制定は1961年(昭和36年)からである。
- ^ 6階旧千日劇場跡は、ボウリング場改装工事中であり、火災時にスプリンクラーの機能が残っていたかどうかは不明である。ただし大阪市消防局の検証では、スプリンクラーヘッドから水が噴射された形跡はあったとされる。
- ^ 基本的には常時閉鎖状態だったが、一部のホステスは、普段からE階段出入口を任意に解錠してデパートの売場内に出入りしていたと証言している。火災当日の同扉の施錠は、21時閉店後の巡回時にデパート保安係員によってE階段側から為されていた。
- ^ 保安係員1班6人のうちの1人は、年休を取るために必ず休む決まりになっており、通常の夜間勤務は実質5人体制であった。
- ^ a b c d 大阪府警捜査一課・南署特別捜査本部の調べによれば、7階プレイタウンの救助袋は、旧歌舞伎座ビル時代の1952年(昭和27年)に4階から屋上までの各階に設置された計5つの救助袋のうちの一つである。また南消防署の調べによる設置年は、1958年12月の千日デパート開業時を基準としており、警察との間で解釈の違いがある。救助袋の納入業者によれば、1963年以前は年に数回の保守点検を行っていたが、1963年に入ってから日本ドリーム観光側から契約を解除されて以降の保守点検については、新しい業者の責任であるので不知だという。展張時の長さについては、南消防署の調べでは30.21メートル、大阪府警捜査一課・南署特別捜査本部の調べでは31.35メートル、報道機関によっては四捨五入して32メートルとするところもある。
- ^ プレイタウン店内に備わっていた懐中電灯の場所と本数=電気室3、クローク2、レジ・リスト2、事務所3。合計10本。
- ^ 中核派、革マル派、約620人によって行われた。「沖縄返還改策粉砕」「沖縄派兵反対」を主張し、集会を開いた後、20時からミナミ周辺をデモ行進した。
- ^ 右時刻は、刑事裁判において大阪地方裁判所が認定したものである。工事作業員の一人が駐車場へ車を取りに出掛けた際、3階の作業現場を離れた時刻は「22時25分」で、駐車場の駐車カードに記入した時刻は「22時35分」である。千日デパートから駐車場までの所要時間が徒歩で「9分25秒」掛かることから「出火推定時刻22時27分」を基に作業員らの行動も加味して導き出された。他の工事作業員2人の証言では、それぞれ22時35分また37分に火災を発見したとされるが、それらは個人の感覚的なものであり、いずれの時刻も認定から除外された。大阪市消防局の当初の調査では「22時30分ごろ」としていた。
- ^ 火災当時、消火器の使用方法は製造メーカーにより異なっていた。千日デパートで使用していた主な消火器は、旧式の「二重瓶式消火器」だった。
- ^ a b c 電気工事関係者は合計6人であるが、工事作業者の1人は22時25分ごろに駐車場へ車を取りに出掛けており、火災発見時にはデパートビルの中にいなかった。
- ^ バンドリーダーの証言によれば「3曲目の曲」とは、アイ・ジョージと志摩ちなみのデュエット曲「赤いグラス(1965年リリース。同タイトルの映画主題歌1966年)」であった。同曲の演奏中にプレイタウン店内へ煙が流れてきたという。
- ^ 1967年(昭和42年)10月16日1時33分ごろ、地下1階プレイタウン専用エレベーターホールに設置してあったソファーの一部がタバコの不始末により燃焼したものである。損害はソファー1個分のみで大事には至らなかった。
- ^ プレイタウン店内で従業員による放送が確認されているのは2回である。
- ^ 7階A階段の鍵はプレイタウン事務所内に保管されており、実際のところクローク内には無かった。またA階段の屋上の鍵は、1階保安室に単独キーがあるのみでプレイタウンでは保管していなかった。ただしA階段屋上の出入口はガラス扉なので、屋上へ避難しようと思えば扉のガラスを破ること自体は可能だった。
- ^ E階段に関しては、プレイタウン事務所内には階段出入口の他に屋上出入口の鍵が保管されており、屋上への避難も可能だったが、E階段は完全に煙で汚染されていたため、屋上へはおろか、更衣室直結の非常扉から先へ進むことすらできなかった。
- ^ 6階の旧千日劇場跡にスロープで繋がる幅約10メートルの連絡通路。プレイタウンが6階でも営業していた時に使用していた。火災発生の数日前まで、通路部分に壁も無くスロープも存在していた。
- ^ F階段の屋上の鍵は、プレイタウン事務所内に保管されておらず、1階保安室に単独キーがあるだけだった。従って仮にF階段が煙で汚染されていなくても避難者らは屋上に脱出することはできなかった。
- ^ a b これは発表時点での速報値であり、のちに訂正されている。
- ^ 初七日法要には遺族や被害者の参列は一人も無かった。理由は主催者の手違いにより遺族側へ連絡をおこなわなかったためである。
- ^ 通報者は、供述により千日デパート保安係の保安係長だと確認された。
- ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に南署を廃止し、浪速署を発足させた。
- ^ a b 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に東署を中央署に改めた。
- ^ 火災現場に出場したが、南消防本署に残留。消火活動には参加していない。
- ^ 東雲PR分隊は、火災現場に出場したが待機命令により活動はせずに引き揚げた。
- ^ 火災現場に出場後、活動はせずに東消防本署にて残留警備にあたった。
- ^ 火災現場に出場後、活動はせずに東消防本署にて残留。
- ^ 負傷者搬送に投入された救急隊(計12隊)=南、西、天王寺、東、港、福島、西成、阿倍野、生野、大正、都島、浪速
- ^ 遺体搬送に投入された救急隊(計7隊)=東、福島、西成、西、大正、港、南
- ^ 15日未明にデパートビル6階で発生した再燃火災(小火)により消火活動が再開されたことから、後に鎮火日時は15日17時30分に訂正された。
- ^ 14日10時55分までの総放水量。ただし泉尾TR分隊の放水量は不明なので、その分は計算に含めていない。15日未明に発生した6階小火に対する消火および防御に使用した放水量は含まない。
- ^ a b c 現中央消防署管内
- ^ a b c 現浪速消防本署
- ^ a b c 現浪速消防署管内
- ^ 現中央消防本署
- ^ 一部の資料ではデパート滞在者を「210人」としているが、警察と消防で情報を照合し、綿密な追跡調査をおこなった結果、客2人を新たに加えたもので「212人」が正しい数値である。
- ^ プレイタウンには絶えず客や従業員が出入りしていたので、滞在者の人数にはある程度の変動がある。したがって7階で火災被害に巻き込まれた者を7階滞在者とする。
- ^ 6階ボウリング場改装工事に携わっていた作業員の1人は、火災発生時に廃材の積み込み作業で路上にいたところ、デパートビルの窓から煙が噴き出しているのを確認し仲間に知らせるためにCエレベーターで6階へ昇った。6階到着後、煙に巻かれたため直ちにエレベーターで脱出している状況が確認されているが、その作業者はビル滞在者に含めない。ボウリング場改装工事に携わっていた作業者は10人ほどいたが、火災発生時、6階に滞在していたのは6人である。一部の資料では7人滞在していたとするものも存在する。
- ^ a b 3階ないし4階に残業で滞在していたニチイ千日前店の従業員4人については、22時ごろに退館しているが、火災のおおよその発火時刻と前後することからデパートビル滞在者に含めている。
- ^ 1階滞在者のうち、保安係員2人は火災発生時刻のころは、まだ館内巡回中(事務所関係の巡回)だった。
- ^ a b 1階プレイタウン関係者10人については、客の呼び込みや送迎のためにデパートビル南側路上もしくはプレイタウン入口または地下1階ロビーにいたものであるが、火災発生時刻(22時27分)から7階に煙が充満してきた時刻(22時43分)の間に各々が2基の専用エレベータで7階との間を往復しているので、それらの者はデパートビル滞在者に含める。客については、出入り状況と素性が正確に把握できないことから火災に巻き込まれなかった場合は滞在者に含めない。
- ^ 2人とも当夜の宿直員である。2人は火災発生時に館内の風呂場(地階)で入浴中だった。
- ^ a b 7階窓からの飛降りまたは救助袋からの転落による墜落死22人の詳細な死因は、脳挫滅1人(男性)、脳挫傷12人(男性5人、女性7人)、頚椎骨折3人(女性3人)、骨盤骨折2人(女性2人)、胸腔内臓器破裂2人(女性2人)、外傷性ショック2人(女性2人)である。ただし墜落死した者のうち、誰がどの死因に該当するかは各資料には明記されておらず、不明である。
- ^ a b エレベーターを使って自力脱出に成功した人について、多くの資料はプレイタウン滞在者のホステス1人としている。A1エレベーターで7階へ昇ってきた男性客1人とホステス1人の計2人については、7階へ着いたときに、ちょうど煙が7階エレベーターホールに充満しているのを目の当たりにした。そこへプレイタウン滞在者のホステス1人が慌てて同エレベーターに乗り込んできて、3人はそのまま一緒に地下1階へ避難したものである。なお客1名はビル滞在者に含めていない。
- ^ ホステス1人以外にもプレイタウン関係者でエレベーターで往復した者もいたと思われるが、火災による煙で店内が騒ぎになった後のみ特筆する。
- ^ 検察審査会法第32条=検察官の公訴を提起しない処分の当否に関し、検察審査会議の議決があったときは、同一事件について更に審査の申立てをすることはできない。
- ^ 1967年3月、5月、10月に相次いで異なる管理権原者である「ニチイ千日前店」と「プレイタウン」が千日デパート内で営業を始めたが、その時点で1963年に提出された消防計画の内容からは実態が大きく変わっていた。火災発生当日に至るまで法令で定められた共同防火管理に基づく3者共同の消防計画が策定されなかったことは、現に存在している事実に反していたことになる。
- ^ 22時44分ごろ、第一出場の消防隊は消火活動を行うために内部進入を試みたが、その際に千日デパートビル北東正面入口と北西入口のシャッターを開放した。その結果、大量の空気をビル内部へ流入させることに繋がり、火勢が一気に強まって火災の延焼はさらに進んだ。そのことで7階プレイタウンにより一層の煙と有毒ガスが流入するに至った。本件火災の状況ならびに燃焼実験の結果から、煙を排出するために強制送風を実施することは必ずしも良い結果をもたらさないと結論付けられた。
- ^ 法令が改正された場合、新しい法令規定の適用を必ず受ける消防用設備、という意味。自動火災報知設備は、そのうちの一つ。
- ^ 11月6日に北陸トンネル火災が発生しているが、当該火災は鉄道車両の火災事故なので、ビル火災がテーマの当記事では考慮に加えなかった
- ^ 大洋デパート火災の死者数については、火災発生当日で100人、その後48時間経過した時点で3人増え、合計103人となった。ところが火災発生から7年経過した1980年12月16日に火災による一酸化炭素中毒の影響で国立熊本病院に長期入院していた負傷者1人が死亡したことにより、最終的に死者は104人となった。多くの資料はこの「7年後の死者1人」を計上していない。
- ^ 負傷者数については、資料によってその数は区々であるが、警察庁発行の「昭和49年度版・警察白書」によれば、最終的な負傷者数は「124人」となっている。なお大洋デパートの防火管理者や火元責任者らに対する刑事裁判においては、裁判所が認定した負傷者数は「67人」であった。これは被告らの過失によって負傷させられた客および従業員の人数なので消防隊員や消防団員などの負傷は含まれておらず、全体の負傷者数とは異なっている。
- ^ a b c 現行の法令が規定する「特定防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能1時間を有するものをいう。
- ^ a b c 現行の法令が規定する「防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能20分を有するものをいう。
- ^ 1972年6月4日夜に被疑者は勾留期限切れにより処分保留で釈放された。自供を裏付ける直接的な証拠が無く、物証の代わりとなる科学鑑定もまとまらず、期限内に起訴できなかったことによる措置。
- ^ 建設計画時または建設中における新ビルの仮称は「新千日デパートビル」であった。
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