しんきょく【神曲】
神曲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/20 09:15 UTC 版)
『神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。
注釈
- ^ Commediaのトスカーナ方言
- ^ ダンテの時代、地獄は聖地エルサレムの真下に存在すると信じられていた。また、エルサレムより西へ90度にジブラルタル、中間にイタリア、東へ90度にインド・ガンジス川があるという世界観である
- ^ 平川訳は初訳は1966年、単行判でも新版(全1巻、河出書房新社)がある。
- ^ 野上訳は、筑摩書房「世界古典文学全集」ほかで刊行
- ^ 三浦訳は、2014年に角川ソフィア文庫(全3巻)で再刊。
- ^ 原訳は最新の研究の成果に基づいた訳注・解説。講談社学術文庫(全3巻)、2014年
- ^ 『神曲 地獄篇』(藤谷道夫補訳・注解、河出書房新社、2018年6月)、他に粟津則雄『ダンテ地獄篇精読』(筑摩書房、1988年10月)が刊行。
- ^ 河島訳は〈地獄篇〉が「図書」(岩波書店)で、2005年(平成17年)6月号より2008年(平成20年)6月号まで連載。〈煉獄篇〉は「図書」2011年1月号から2013年にかけ連載。三篇を完訳すれば、岩波書店で解説研究と併せ刊行予定(訳者は2018年5月に没した)。
- ^ なお谷口訳版『ドレの神曲』の旧版は1989年と1996年に刊。平川祐弘訳『神曲 完全版』(河出書房新社、2010年8月)も、ドレの挿画全135点を収録
出典
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月8日閲覧。
- ^ ダンテの『神曲』の原題が、1555年で変わったというのは、本当か? | レファレンス協同データベース
- ^ http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person960.html
- ^ https://web.archive.org/web/20190806143711/http://www7a.biglobe.ne.jp/~dantesque/ [リンク切れ]
- ^ 名作を新しく 読むシリーズ(2008年2月10日時点のアーカイブ)
- ^ https://web.archive.org/web/20160803183152/http://www.gutenberg21.co.jp/dante1_3.htm
- ^ ヨーロッパ文学とラテン中世. みすず書房
- ^ 著者から読者へ『懐かしい年への手紙』講談社文芸文庫
神曲
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「ダンテ・アリギエーリ」の記事における「神曲」の解説
ダンテが『神曲』三篇の執筆を始めたのは1307年頃で、各都市の間を孤独に流浪していた時期である。『神曲』においては、ベアトリーチェに対する神格化とすら言えるほどの崇敬な賛美と、自分を追放した黒党および腐敗したフィレンツェへの痛罵、そして理想の帝政理念、「三位一体」の神学までもが込められており、ダンテ自身の波乱に満ちた人生の過程と精神的成長をあらわしているとも言える。とくにダンテが幼少期に出会い、その後24歳にして夭逝したベアトリーチェを、『新生』につづいて『神曲』の中に更なる賛美をこめて永遠の淑女としてとどめたことから、ベアトリーチェの存在は文学史上に永遠に残ることになった。 『神曲』は地獄篇、煉獄篇と順次完成し、天国篇を書き始めたのは書簡から1316年頃と推定される。『神曲』が完成したのは死の直前1321年である。ダンテは1318年頃からラヴェンナの領主のもとに身を寄せ、ようやく安住の地を得た。ダンテはラヴェンナに子供を呼び寄せて暮らすようになり、そこで生涯をかけた『神曲』の執筆にとりかかる。そして1321年に『神曲』の全篇を完成させたが、その直後、外交使節として派遣されたヴェネツィアへの長旅の途上で罹患したマラリアがもとで、1321年9月13日から14日にかけての夜中に亡くなった。客死したダンテの墓は今もラヴェンナにあり、サン・フランチェスコ教会の近くに小さな霊廟が造られている。フィレンツェはたびたびラヴェンナにダンテの遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。
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