SWS~インディ団体時代
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「冬木弘道」の記事における「SWS~インディ団体時代」の解説
当時、天龍同盟と対立していた全日本正規軍のエースだったジャンボ鶴田は、伸び悩んでいた冬木に対し手を差し伸べ、握手をして共闘するかと思われたが、1990年に冬木は天龍らと共に全日本を離脱してSWSの旗揚げに参加し、再度天龍と共に道場「REVOLUTION」の一員として活動する。1992年にSWS内部で対立が起きた際にも天龍と行動を共にし、SWS崩壊後に天龍が興したWARに参加。リングネームを本名に戻した。 1994年頃から天龍らWAR正規軍と敵対する反体制側に回り、冬木軍として邪道、外道とのトリオで活躍した。新日本プロレス、IWAジャパン、新格闘プロレス、FMWにも参戦し幅広く活躍する。冬木は理不尽大王を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させる。 1996年10月を最後にWARを離脱し、邪道・外道と共に冬木軍プロモーションを設立した。冬木軍として、東京プロレスを母体に計画されていたインディペンデント団体の統一機構となる「FFF」に参加を表明したが、資金難によりFFFが正式立上前に崩壊すると、冬木軍として興行を行う一方で、他団体への参戦を模索。1997年4月に岐阜県大垣市で冬木軍としての旗揚げ戦を開催している。同年7月には、長崎NCC&スタジオにおいて日本プロレス界初となる男子対女子のシングルマッチをライオネス飛鳥と行っている。なおこの試合は邪道・外道の加勢を受けた冬木が勝利している。またこの頃、リングネームの下の名前の読みを「こうどう」に変えた。 その後はFMWに再び参戦し活躍する。ミスター雁之助、金村キンタローらとTNR を結成し、創始者である大仁田厚をFMWから追放することに成功。その後もハヤブサら正規軍を苦しめる反面、ユニット「ブリーフブラザーズ」を結成し、白のバスローブに同じく真っ白なブリーフ姿でコントを披露した。TNR解散後も冬木は井上京子、チョコボール向井らとECW JAPAN軍を率いて活躍し、一方でFMWのコミッショナーに就任するなどリング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは、リング上に留まらない新世代のヒールスタイルとも言われた。また邪道・外道・冬木で「理不尽音頭」というCDを発売しており、歌手デビューも果たしている。 1995年11月には早稲田大学である「早稲田祭」で、プロレス研究会“爆烈”主催の『冬木軍理不尽道』と題する講演会に邪道・外道と共に出演した。また自身の娘の小学校の講演会にも出席し、その際には「意外だと思うんだけど、僕は小学校の頃って体育と給食が大嫌いだったんだよ」と自身の子供の頃を振り返っている。なお、冬木はその際に沢山の児童に囲まれており「今日はまるで大仁田になった気分だよね」と発言している。これは普段、自身のプロレススタイルがヒールの立場であり、大仁田のように毎回沢山のファンに囲まれるような機会が無かったためである。 2001年10月27日、川田とシングルで対戦したが敗退した。その後、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天龍と組んで出場。2002年2月のFMW経営破綻後、3月に自ら主宰する団体としてWEWを設立し、5月に川崎球場で旗揚げ戦を開催することを発表した。
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