SWS移籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:15 UTC 版)
新日本プロレスから専属フリー契約を解除された北尾は、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦。参戦早々に行われた道場マッチでは対戦相手の大矢健一(現:大矢剛功)をKOし強烈なインパクトを与え、SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年3月24日に行われたレッスルマニアVIIに天龍とタッグを組んで出場する等、活躍を期待されたが、それから間もない同年4月1日に行われた神戸ワールド記念ホール大会での、同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク、元幕下・琴天山)との第2戦目のシングル試合中、トラブルを起こす。 この試合では北尾は試合当初から不満げな表情を浮かべ、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対しロックアップすらせず、目潰しのポーズをとって威嚇する俗にいう「シュート」を仕掛けた。この目に余る態度にテンタは激高、逆に北尾をレスリングの技術で投げ飛ばし優勢に立つ。その後、攻めあぐねた北尾は実際に目潰し(未遂)を行い(サミングではなく人差し指と中指を突き出した非常に危険な行為。テンタが避けたため未遂に終わる)試合は完全に進行不能となる。そのまま両者ともに臨戦ポーズをとりながらにらみ合いの硬直状態が続くが、注意へ近づいたレフェリーに北尾がローキックを浴びせ直後に反則負けが宣告された。 北尾は反則負けを宣せられた挙句、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言。さらに観客に向かって「お前らこんなもの見て面白いのか!」と叫んだ。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼する北尾の姿はプロレス業界全体を騒然とさせたが、北尾本人はこの直後に満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう?」と話している。 その後は「北尾事件」としてプロレス誌だけでなく一般週刊誌もスキャンダラスに報じ、天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と当時就いていた3つの役職(取締役・「レボリューション」道場主・理事会長)に関し田中八郎社長に辞表を提出(田中は慰留)。ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦はオレがやる」と発言するなど、波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾を解雇する決断を下した。この決定には北尾も「仕方ありません」と受け入れざるを得なかった。 北尾の没後、当時控室にいた船木誠勝が動画サイトで舞台裏を証言している。それによると、試合直後の控室で一連の言動を注意した現場監督の田中社長夫人に対し、北尾が罵声を浴びせた上に椅子を投げつける暴挙に及んだという。椅子が直撃していれば怪我では済まなかったこの行為に、船木は例の発言よりも悪質だったと述べている。また田中社長本人はこの日を境にレスラーへの態度を一変させてしまったという。この件については当時は報じられていなかった。 なお、藤原喜明の証言によると、SWSサイドでは北尾を一旦解雇した後、プロフェッショナルレスリング藤原組のリングで復帰させるプランを考えており、田中社長同席のもと、藤原が北尾と面談したが、北尾が挨拶もそこそこにノートパソコンを取り出し「私はこう言う感じで(試合を)やりたい」と自分の売り出し方をプレゼンテーションし始めたので、呆れた藤原がその場で帰ってしまい藤原組での復帰は無くなったという。 新日本プロレス、SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界でも「復帰は難しい情勢であり、事実上の永久追放」と見る関係者も多かった。
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