MS-DOSとの競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:26 UTC 版)
当時多くの人が16ビット機でもCP/Mが標準になるだろうと考えていた。1980年にIBMは、ビル・ゲイツの提案に従ってデジタルリサーチに連絡を取り、開発中のIBM PCに提供する新しいCP/Mのライセンス契約について話し合おうとした。秘密保持契約を結ぶことができずに話し合いは決裂し、IBMは代わりにマイクロソフトへOSの提供を打診した。その結果生まれたMS-DOSは間もなくCP/Mより売れるようになった。 初期バージョンのMS-DOSは基本となるコンセプトや仕組みがCP/Mと似ていた。ファイルのデータ構造が同じで、ディスクドライブにドライブレター(A:や B:など)を割り当てる形も同じだった。ファイルシステムのFATはCP/Mと比べてMS-DOSが最も違う所だった。全体的に大きな違いがないことから、WordStarやdBaseなどのCP/Mの人気ソフトウェアを簡単に移植できた。一方でCP/Mにあった、ユーザーごとにディスクの領域を分割する機能はMS-DOSに採用されることはなかった。IBM PCは一部を除いて64KB以上のメモリを利用できた一方で、CP/Mは16KBのメモリで動作するよう設計されていたため、MS-DOSは多くのメモリを使ってCOMMAND.COMの内蔵コマンドを増やすことができ、フロッピーディスクからコマンドを読む必要が減ることで処理が速くなり、OSのフロッピーをアプリケーションやデータファイルのフロッピーに変えても操作できることが増えて使いやすくなった。 8ビット版CP/Mのソフトが利用できるSoftCardのような拡張ボードがIBM PC用にすぐにリリースされたが、マイコン市場がIBM互換機市場に移るにつれてCP/Mのシェアは急速に小さくなり、以前のようなCP/Mブームが再び訪れることはなかった。マイコン業界誌最大手のByte誌は、IBM PCがリリースされると1年も経たないうちにCP/M関連商品の記事を事実上扱わなくなった。1983にはS-100ボードの広告がわずかにあり、CP/Mソフトの記事も数件あったが、1987年には全く見られなくなった。1984年にInfoWorldが掲載した記事では、企業に普及したCP/Mを一般家庭に広めようとする努力は失敗に終わり、CP/Mソフトは個人で買うには高すぎたとし、1986年にはこれまで他社が次々にCP/Mから撤退する中でCP/M用の周辺機器やソフトのリリースを長く続けていたKayproがついに8ビット版CP/M用のソフト開発を中止してMS-DOS互換機の開発販売に集中するという記事が掲載された。 後期バージョンのCP/M-86はパフォーマンスや使い勝手で大幅な進化を遂げた。マルチユーザー版のMP/Mからマルチプロセスなどの機能をマージしてコンカレントCP/Mとなり、Linuxの仮想コンソールのように画面を切り替えて複数のアプリケーションを使用することができるようになった。MS-DOSとの互換性が実現してDOS Plusと改名され、さらにDR-DOSと改名された。一方MP/MもDR-DOSから逆マージされ、マルチユーザーDOSに改名した。
※この「MS-DOSとの競争」の解説は、「CP/M」の解説の一部です。
「MS-DOSとの競争」を含む「CP/M」の記事については、「CP/M」の概要を参照ください。
- MS-DOSとの競争のページへのリンク