KGBとの関係
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1982年9月、ソ連共産党国際部副部長として対日情報工作活動を行っていたイワン・コワレンコが、三浦の仲介で、衆議院議員の中川一郎を親ソ派に取り込むための工作活動として極秘裏に接触、その際、秘密接触においては三浦の非公式ルートを活用することが合意された。 1982年のレフチェンコ事件では、レフチェンコ・メモに三浦の名があり(コードネームは「ムーヒン」)、ソ連のエージェントとしての活動が記録されていた。ジャーナリストの加藤昭は、1991年に公開されていた旧KGB文書を調べた際、1983年1月9日に中川一郎が変死した5日後に三浦がKGBに「中川は明らかに他殺だ。CIAの手先に消された」と報告していたという内容が含まれていたと述べている。
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KGBとの関係
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「ベトナムに平和を!市民連合」の記事における「KGBとの関係」の解説
1991年(平成3年)のソビエト連邦の崩壊によって明らかにされたソ連側資料によれば、ソ連国家保安委員会(KGB)は秘密裏にべ平連側と接触しており、昭和43年初めごろには、べ平連側から脱走兵支援のための資金的援助の要請があった。 これに対してKGB側は、反米プロパガンダ活動の拡大と脱走アメリカ兵を助けるため必要とあらば物質的サポートなどを行うが、ソ連の有する手段を用いて脱走兵を移送することはできないと回答するよう共産党中央委員会に提案している。 小田や高橋らを中心としたベ平連の幹部、並びにJATECの構成員は、駐日ソ連大使館員を装ったKGB要員の支援を得て少数の脱走兵を複数回、日本からスウェーデンなどの中立国に脱出させた。 吉川勇一本人は、共同通信記者の春名幹男の取材に対して、「(ソ連大使館の)参事官や一等書記官と会ったが、恐らく、全員がKGB要員だった」、「脱走兵の日本脱出に事実上の援助を与えてくれるところなら、KGBだろうがスパイだろうが手を借りたいという気持ちだった」と述べている。ラッシュ・ジョンソンのスパイ活動でソ連ルートが壊滅したといわれているが、それだけではなく、何度も脱走を手引きするうちに徐々にKGB側は「重要機密部門で働いていた兵士しか受け入れない」という態度を見せるようになり、協力関係は破綻したという。 吉川勇一とソ連の関係は、共産党の職業活動家として日本平和委員会常任理事だった1963年当時から問題とされていた。不破哲三は『日本共産党にたいする干渉と内通の記録――ソ連共産党秘密文書から 上』(新日本出版社、1993年)で、「ソ連大使館での六回にわたる会談とセナトロフ(引用者注:ソ連大使館二等書記官)・メモが雄弁に語るように、吉川と吉田(引用者注:吉田嘉清。原水爆禁止日本協議会事務局主任)は、もっとも密接な連携のもとに、ソ連と内通して秘密工作をはじめた二人でした」と吉川を激しく非難している。吉川はベ平連事務局長就任後の1966年、吉川と同時期に親ソ派として共産党を除名された志賀義雄らの「日本のこえ」に参加した。
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