ドゥプチェク体制の始動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:30 UTC 版)
「プラハの春」の記事における「ドゥプチェク体制の始動」の解説
1月総会の結果、事実上、検閲が廃止されたこともあり、ノヴォトニー体制の中核を担っていた党幹部や閣僚に対する批判が高まった。2月には、国防省の幹部で、ノヴォトニーと懇意にあったヤン・シェイナ将軍がアメリカに亡命する事件が起きた。彼は公金の不正流用疑惑で捜査対象となっていたが、同時に12月末から1月初めにかけて、ミロスラフ・マムラ将軍などと共謀し、ノヴォトニーの権力維持を目的とするクーデターを企てていたことが発覚した。この事件は、マスコミにとって格好の話題となり、その論調の矛先は、大統領職に留まっていたノヴォトニーに向かった。また3月にはいると、ノヴォトニー体制を支えてきた党や政府幹部も相次いでその職を去っていった。たとえば、内相ヤン・クドルナや検事総長ヤン・バルトシュカの辞任は、ソ連(特にKGB)との関係が深い治安機構を管轄する部署にも改革の波が押し寄せたことを知らしめた。そしてついに3月21日、ノヴォトニーは大統領職を辞任し、第二次世界大戦中の英雄であったルドヴィーク・スヴォボダが大統領に選出された。
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