FT-17との競合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 20:45 UTC 版)
「FCM1A (戦車)」の記事における「FT-17との競合」の解説
FCMの重戦車計画には強力かつ影響力のある反対者がいた。ジャン=バティスト・ウジェーヌ・エスティエンヌ(仏語版))准将である。彼は野心的な軍人であるとともに高度な知識を持った技術者であり、フランス初の実用戦車であるシュナイダーCA1の開発と配備を殆ど独断で推進し、1916年9月に新設されたフランス初の機甲部隊である「特別砲兵隊(フランス語: groupes d'artillerie spéciale)(仏語版)」の指揮官を務めていた。 エスティエンヌは続くFT-17戦車の開発においてルノーと密接に協力していたため、他の戦車開発計画にも精通していた。彼はこの大型車両の製造がフランスの戦車に関する生産設備を占有することを恐れていた。それは彼の進めるシュナイダーCA1の生産・配備の障害となるだけでなく、より実用的で軽量なFT-17の入手が不可能となることを意味していたからである。通常であれば彼はライバル会社へ働きかけて開発を妨害することができたが、今回は同じ実業家が両方の計画の背後にいたため、政治的圧力を加えることができなかった。 エスティエンヌの危惧は根拠のないものではなく、1916年11月にはムーレがFT-17の開発推進を妨害しようと「すべての利用できる資源を重戦車製造に集中するべし」と主張して、現実のものとなった。さらに、アルベール・トーマ(仏語版)軍備大臣は公然とムーレとその推進する計画に委任を与えて、それを撤回しようとしなかった。エスティエンヌはこれに驚き、11月27日、軽戦車構想を擁護しているフランス陸軍最高司令官、ジョゼフ・ジョフル将軍へ手紙を出した。エスティエンヌはその中で「特定の状況下では「巨大陸上戦艦」にもおそらく用途があるが、運用可能な重戦車が開発できると証明されていないのに、フランスの工業力によって十分な数を生産でき、遅延なく造れる軽戦車を優先しないのは愚策である」と指摘した。そして、彼はジョフルに対し「重戦車開発計画を放棄させるためにあらゆる影響力を利用するべきである」と主張した。更に、12月30日に開かれた前述の委員会の最初の会合にて、戦車の武装として「最も適しているものは口径105mmの短砲身榴弾砲であり、なぜならばそれが最も優先されるべき重戦車の主砲として相応しいからである」と結論されて既にその方向性に従って試作車の開発が進められていることに衝撃を受けることになった。エスティエンヌは「軽量型の戦車も重量型の戦車も共に重要であり、どちらかのみが重点的に開発・生産されるべきではない」と主張して予防線を張ったが、委員会の主導権をムーレが握っていることもあり、エスティエンヌの望む方向には進みそうになかった。 このように状況はエスティエンヌに不利であったが、ジョフルからはエスティエンヌに対し「貴官の見解は戦術と組織的分析において疑いなく正しいものの、重戦車開発計画に対する政治的支援があまりに強すぎ、貴官には恩恵が与えられなかった」との回答(釈明)が届き、ジョフレは少なくともFT-17がキャンセルされないように計らうと共に「重戦車開発には長期の開発期間が必要なため、ごく近い将来における軽戦車製造に差し支えることはない」としてエスティエンヌの不安を鎮めた。結果として、ジョフルの見解の通りムーレの進める重戦車開発計画は少数の軽戦車試作型の製造許可には害が及ばず、FT-17の開発・製造には影響はなかった。 1917年1月17日の委員会会合にはエスティエンヌは出席しなかった(事実上のボイコット)が、自身の進める軽量型戦車の開発・配備計画に最高指揮官であるジョフレの賛同と後援が得られたと判断し、委員会に、より具体的にはムーレに対して「FCM社による“char lourd”案は大いに評価できるもので、拡大発展型2種の開発にも大いに賛同するものである」と文書で表明した。ただし、主砲に関しては「105mm榴弾砲の他に75mmの中~長砲身カノン砲を搭載することを検討することが望ましい」と主張した。 これら諮問委員会内部の(というよりは、ムーレとエスティエンヌの)意見対立の中、1916年12月にジョフルはロベール・ニヴェル将軍へ最高指揮官を引き継いだ。1917年1月下旬、ニヴェルはエスティエンヌから重戦車計画について報告をうけ、前述のような事情を殆ど知らなかったニヴェルを驚かせた。どちらの勢力にも大きな力を持つ推進者がおり(そしてどちらの計画にもフランスの重工業界の強い支援があった)、更に、自身の進める大攻勢(後にいう「ニヴェル攻勢」)の準備で忙しく、反対も多い大攻勢を推進するために敵対者を増やしたくないニヴェルは選択的な決定を下すことをせず、1月29日に、彼はトーマとムーレに手紙を書き「この状況下では重戦車開発計画がシュナイダーCA1の生産を妨げることは認められなかった」と釈明し、更に2月5日、エスティエンヌに対し彼の進める戦車開発計画には妨害の危険はない旨を回答し、玉虫色の決着を図った。こうして、水面下の事情はともかく、1917年2月1日、ムーレとエスティエンヌの主張は共にニヴェルによって承認されたことになった。
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