ED19形への改造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 14:34 UTC 版)
「国鉄ED53形電気機関車」の記事における「ED19形への改造」の解説
1937年(昭和12年)に仙山線は作並 - 山寺間の開通で全通したが、この区間は長大な仙山トンネル通過に対応して当初より電化された。これに伴い、ED53形3 - 6号機が仙山線運用に充当されることになり以下の改造が大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で施行された。 山岳区間での運用に備えて歯車比の増大(2.72→4.47)及び抵抗器容量の増加 運用区間が寒冷地であることからスノープラウほか耐寒耐雪装備の追加改造 運転台窓下の砂箱を撤去し台車に省標準形の砂箱取り付け、砂箱と干渉した速度計を改造 車体側面下部のルーバー形状を省標準形に変更(1・2号機は横並び型、3・4号機は縦並び型) 東海道本線時代に使用した客車への電気暖房設備を撤去 ボールドウィン製のパンタグラフを国産のPS10形に交換(1938年以降実施) 改造後はED19形(ED191 - 4)に改称のうえ、作並機関区に転属した。引き続き東京機関区で運用されていたED53形1号機と2号機も1940年(昭和15年)に甲府機関区に転属、1941年(昭和16年)にはED19形(ED195, 6)に改造されたが、ED191 - 4号機に施された耐寒対雪装備の追加は簡略化、砂箱や側面ルーバーは未改造のまま身延線で使用された。 戦時中には1号機が西国立機関支区に転属して南武線の貨物列車を牽引、2号機と4 - 6号機は豊橋機関区に転属し飯田線の貨物列車の牽引に使用された。甲府機関区に転属した3号機も戦後の1948年(昭和23年)豊橋へ転属、1号機以外の全車が飯田線で運用されるようになった。 戦後は車体改修が行われ、砂箱が未改造であった5号機と6号機も運転台窓下の砂箱を撤去、さらに5号機は全溶接構造の車体に更新され、側面窓やルーバーの形状で異彩を放った。また2号機は機器焼損のため他機に先駆けて内部機器を含めた改修工事を受けたことからパンタグラフの装備位置が異なった。このほか3 - 6号機は運転台前面の窓が隅にrがついた形態に更新、側面ルーバーは1 - 4号機が横並び型に変更され、最終時の形態は、それこそ6車6様であった。 機器は国鉄形電気機関車の基礎となったこともあり、構造的にある程度の互換性があったことや、EF51形の廃車で予備品が確保できたため、大部分がウェスティングハウスのものを廃車まで使用し続けたが、2号機のみ戦後に装備改造を受け、制御電源の電圧を32Vから100Vに改めるとともに国産機器に更新している。 昭和30年代以降は比較的軽量なことから、6両全車が伊那松島機関区に集結し軌道構造が低規格な飯田線飯田以北での貨物列車牽引に運用されたが、代替機ED62形の投入に伴い1976年(昭和51年)までに全機が廃車となった。
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