A-34/T-34の誕生とは? わかりやすく解説

A-34/T-34の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 01:39 UTC 版)

T-34」の記事における「A-34/T-34の誕生」の解説

しかし、冬戦争でもBTシリーズ装甲脆弱性問題となり、A-32装甲を45mmにするとともに、より幅広履帯採用された。また備砲を76.2mm砲 L-11強化することとなった。 この改良試作車A-34完成待たずに、1939年12月にはT-34として正式採用された。T-34という名前は、機甲兵力の拡張命ず命令出されグリゴリー・オルジョニキーゼ戦車生産率いることとなり、コーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年年号にちなんで、コーシュキンが命名したのである(Zaloga 1994:6)。 コーシュキンのチームは、1940年1月T-34試作車を2輌完成させた。T-34は、同年4月5月ハルキウからモスクワまでの2000キロメートル走行試験行ってクレムリン指導者たちに姿を披露したあと、フィンランドマンネルハイム線まで行きミンスクキエフ経由してハルキウ戻った(Zaloga 1994:6)。伝動機構ドライブトレイン)にいくつか欠点が見つかり修正された(Zaloga & Grandsen 1983:6)。軍の司令部からの反対論や、生産コストが高い事についての懸念フィンランドとの冬戦争において露呈したソ連戦車性能低さや、ドイツ電撃戦有効性を示すことによって克服され1940年9月量産第1号戦車完成したハリコフ機関車工場ではT-26BTシリーズ、そして多砲塔T-28中戦車生産打ち切り全ての生産ラインT-34変更した。コーシュキンは同月の末に肺炎亡くなったハルキウからモスクワへ試験走行によって悪化していた)。後任主任設計技師にはT-34伝動装置開発者であるアレクサンドル・モロゾフ技師指名された。 T-34は、サスペンションには過去設計延長としてBTシリーズから引き継いだコイルスプリング用いたクリスティー式サスペンション採用していた。駆動部分としては、重量に対して比較出力の高いエンジン持ち駆動輪後輪とし、ソ連大地適した幅広柔軟な履帯備えていた。履帯上滑りしたときに巻きもどすしくみはなく、重量がかさむ割に効果の低いコンバーチブル・ドライブは廃止されている。装甲置いては、優れた傾斜装甲であった武装については初期型は76.2mm砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる第二次世界大戦当時ドイツ軍側がこの名称で呼んだのが初出である。)。1944年には2番目の改良型生産始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。これは85mm砲を搭載した大きな砲塔備えている。 T-34実戦投入されたのは、1941年7月バルバロッサ作戦からで、初期の戦闘では乗員未熟さや、無線設備不備により連携して戦闘ができなかったり、トランスミッション故障させ放棄されたり、性能的に劣っているはずのドイツ軍戦車突撃砲撃破されたりもした。

※この「A-34/T-34の誕生」の解説は、「T-34」の解説の一部です。
「A-34/T-34の誕生」を含む「T-34」の記事については、「T-34」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「A-34/T-34の誕生」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

A-34/T-34の誕生のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



A-34/T-34の誕生のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、WikipediaのT-34 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS