A-34/T-34の誕生
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「T-34」の記事における「A-34/T-34の誕生」の解説
しかし、冬戦争でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45mmにするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2mm砲 L-11に強化することとなった。 この改良試作車A-34の完成を待たずに、1939年12月にはT-34として正式採用された。T-34という名前は、機甲兵力の拡張を命ずる命令が出されてグリゴリー・オルジョニキーゼが戦車生産を率いることとなり、コーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなんで、コーシュキンが命名したものである(Zaloga 1994:6)。 コーシュキンのチームは、1940年1月にT-34の試作車を2輌完成させた。T-34は、同年4月と5月にハルキウからモスクワまでの2000キロメートルの走行試験を行って、クレムリンの指導者たちに姿を披露したあと、フィンランドのマンネルハイム線まで行き、ミンスクとキエフを経由してハルキウに戻った(Zaloga 1994:6)。伝動機構(ドライブトレイン)にいくつか欠点が見つかり修正された(Zaloga & Grandsen 1983:6)。軍の司令部からの反対論や、生産コストが高い事についての懸念はフィンランドとの冬戦争において露呈したソ連戦車の性能の低さや、ドイツの電撃戦の有効性を示すことによって克服され、1940年9月に量産第1号の戦車が完成した。ハリコフ機関車工場ではT-26、BTシリーズ、そして多砲塔のT-28中戦車の生産を打ち切り、全ての生産ラインをT-34に変更した。コーシュキンは同月の末に肺炎で亡くなった(ハルキウからモスクワへの試験走行によって悪化していた)。後任の主任設計技師にはT-34の伝動装置の開発者であるアレクサンドル・モロゾフ技師が指名された。 T-34は、サスペンションには過去の設計の延長としてBTシリーズから引き継いだコイルスプリングを用いたクリスティー式サスペンションを採用していた。駆動部分としては、重量に対して比較的出力の高いエンジンを持ち駆動輪は後輪とし、ソ連の大地に適した幅広の柔軟な履帯を備えていた。履帯が上滑りしたときに巻きもどすしくみはなく、重量がかさむ割に効果の低いコンバーチブル・ドライブは廃止されている。装甲に置いては、優れた傾斜装甲であった。武装については初期型は76.2mm砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる(第二次世界大戦当時のドイツ軍側がこの名称で呼んだのが初出である。)。1944年には2番目の改良型の生産が始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。これは85mm砲を搭載した大きな砲塔を備えている。 T-34が実戦に投入されたのは、1941年7月のバルバロッサ作戦からで、初期の戦闘では乗員の未熟さや、無線設備の不備により連携しての戦闘ができなかったり、トランスミッションを故障させ放棄されたり、性能的に劣っているはずのドイツ軍の戦車や突撃砲に撃破されたりもした。
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