2003年の国民投票
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:27 UTC 版)
「アルバロ・ウリベ」の記事における「2003年の国民投票」の解説
ウリベの運動により提案された国民投票は、議会による修正と違憲立法審査権の審議を受けた。議論の結果、取り除かれた局面には、行政府の議会(法律)に対する拒否権の提案、提案全体を「はい」か「いいえ」の選択のみにより投票させる、州や市の財政査察官の廃止、などを含んでいた。 この提案は2003年10月25日の投票で否決された。また翌日の地方選挙でこの提案に反対の意思表示をしていた左派候補が多数当選した。 国民投票の成立には15の提案のそれぞれについて少なくとも有権者の25%の投票率が必要とされた。しかし、実際の総合的な参加は24.8%だけであった、そして、最初の提案(「不正による政治的死」)だけがこれを達成した(すべての提案で投票のかなりの大部分が賛成票であった)。 アナリストには「政治的イベントの組み合わせがウリベ政権に国民投票運動の失敗という政治的停滞をもたらした」とするものもいる。反対派の特に独立民主極やコロンビア自由党による「積極的棄権」及び白紙投票運動が「十分に彼らの同情者を納得させ、家に滞在して翌日代わりに選挙に参加する」かたちで功を奏したとしている。 ウリベの支持者のいくらかは、議会と憲法裁判所によるウリベ提案の修正を不服として、どちらにも参加しなかったとしている。 2003年9月にウリベ大統領は、ほとんどの他の洗練された組織とソースからの批評を尊重するとしながら、「人権組織の中に『テロのエージェント』が潜んでいる」とした演説を行った。ウリベは別の機会にも同様の主張を繰り返している。 これらの声明は人権に関わる職務や反対者を危険に晒すとしてコロンビア内外から厳しく批判されている。これら声明と富裕な牧場主というウリベの家庭の立場から、批評家はウリベの麻薬密売人や準軍組織との「過去の」繋がりを断定してきた。 2003年には国内外の議論の的となっている、「停戦の意思を表明し、前年から連絡を取っていた」準軍組織AUCの司令官カルロス・カスターニョ・ヒルとの交渉が続けられた。
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