1999年1月 - 3月 : ランブイエ和平交渉
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「コソボ紛争」の記事における「1999年1月 - 3月 : ランブイエ和平交渉」の解説
ランブイエ交渉は2月6日に始められ、NATOのハビエル・ソラナ事務総長が両サイドと仲介交渉を行った。彼らは2月19日に交渉をまとめる意向であった。セルビア側の代表者はセルビアのミラン・ミルティノヴィッチ(英語版)大統領であり、ミロシェヴィッチ大統領自身はベオグラードに留まった。これは、ミロシェヴィッチ大統領自身が直接交渉に臨んでの、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させたデイトン合意の時とは対照的であった。この時は、ミロシェヴィッチ大統領自らが交渉に臨んだ。ミロシェヴィッチ大統領の不在は、交渉に関わらず実際の決定はミロシェヴィッチ大統領がベオグラードで行っていることを示すものとみなされ、セルビア国内、国際社会双方からの非難を受けた。コソボのセルビア正教会の主教アルテニイェ(Artemije)は自らランブイエへ出向き、交渉は代表者を欠いていると抗議した。 歴史的根拠に関する交渉の初期段階には成功した。具体的には、連絡調整グループの共同議長による1999年2月23日の声明では、交渉では「民主的な共同体による自由で公正な選挙、公平な法体系を含む、コソボの自治に関して合意が得られた」としている。さらに、「政治的枠組みは定められた」とし、「合意文書の内容を定める」ことを終えるための更なる作業が残されており、残されたものの中には「コソボにおいて招致された国際的な文民と軍のプレゼンス」が含まれていた。しかし翌月の間、アメリカのルービン(Rubin)外交官とオルブライトの影響を受けたNATOによって、軍のプレセンスは「招致された」ものではなく「強制する」べきであるとした。NATOのコソボ解放軍への傾倒は、BBCテレビの番組『Moral Combat: NATO at War』にて特集された。実際には、NATOの軍事委員会の議長であるクラウス・ナウマン将軍の発言では、「ウォーカー大使は北大西洋理事会(North Atlantic Council)にて、停戦の破棄の大部分はコソボ解放軍によるものであるとしている」とされた。 1999年3月18日、アルバニア人、アメリカ、イギリスの代表者らはランブイエ合意に署名したが、セルビアおよびロシアは署名を拒否した。合意案では、次のことを求めていた。 コソボをユーゴスラビア枠内の自治州としてNATOが統治する。 3万人のNATOの兵士がコソボの治安維持にあたる。 NATO兵士によるコソボを含むユーゴスラビア領内への無制限の通行の権利。 NATOとその人員に対するユーゴスラビア法の適用除外。 アメリカ合衆国およびイギリスの代表者らは、この合意案はセルビア側が受け入れることのできないものであると考えていた。これらの後半の要求内容はボスニア・ヘルツェゴビナの平和安定化部隊に対して適用されたものと同様であった。合意案はアルバニア人側の要求を完全には満たしていなかったものの、合意案はセルビア側にとっては十分に過激なものであり、これに対してセルビア側は合意案の大幅な変更を求め、ロシアも合意案は受け入れ不可能であるとした。 ランブイエ交渉が2月に行われている間も攻撃は続けられ、コソボ査察合意は3月には破綻した。道路上での殺害は増加し、軍事衝突が頻発した。他の地域に加え、2月にはヴシュトリ / ヴチトルン(英語版)で、3月にはこれまで衝突のなかったカチャニク(英語版)でも衝突が起こった。 交渉の失敗以降、事態は急速に進行した。NATOによる空爆が始まる1週間前、西側諸国のほとんどのジャーナリストが滞在しているベオグラードのハイアットホテルに、アルカンことジェリコ・ラジュナトヴィッチが現れ、セルビアを去るように求めた。 欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際監視団は3月22日、NATOによる空爆が予見され、監視団の安全を保障できないとして、監視団を撤退させた。3月23日、セルビア議会はコソボの自治を認め、ランブイエ合意の非軍事部分を受け入れることを決定した。しかし、ランブイエ合意の軍事部分、より厳密には「NATOによるコソボ占領統治」の様相を呈している条項Bの受け入れには反対した。合意案は全てにおいて「欺瞞」であるとし、その理由として合意案の軍事部分は交渉の最終段階になって初めて議題に上がり、十分に交渉する時間も与えられず、またその交渉相手は「分離主義者のテロリストの代表者」であり、ユーゴスラビア連邦共和国の代表者と直接会わず、直接交渉することを交渉中一貫して拒否していたとして激しく非難した。その翌日の3月24日、NATOはセルビアへの空爆を始めた。
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