1986年 - 1990年 : スロボダン・ミロシェヴィッチ登場とコソボ
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「コソボ紛争」の記事における「1986年 - 1990年 : スロボダン・ミロシェヴィッチ登場とコソボ」の解説
「パヴレ (セルビア総主教)」も参照 コソボでは、アルバニア人の民族主義が拡大し、分離主義によってアルバニア人とセルビア人の民族間の緊張は高まっていった。有害な雰囲気が拡大し、危険な噂が蔓延し、小規模な衝突の数は増大していった。セルビア正教会の修道院・聖堂等へのアルバニア人による破壊行為、聖職者や修道士への暴行、修道女の強姦なども増え、後にセルビア総主教となった主教パヴレも、1989年にアルバニア人の若者グループに襲われ、全治3ヶ月の重傷を負った。 セルビア科学芸術アカデミー(SANU)が1985年から1986年にコソボを去ったセルビア人について調査したのは、このような緊張関係に対してのものであった。報告では、この期間にコソボを去ったセルビア人の少なからざる部分は、アルバニア人による追放圧力によるものであると結論した。 SANUの6人の研究者らは、1985年6月に草案に基づいてこの仕事をはじめ、草案は1986年9月にリークされた。この「SANU覚書」は大きな議論を呼ぶものとなった。この文書では、ユーゴスラビアに住むセルビア人の置かれた困難な状況に焦点をあてており、セルビアの地位を低下させるチトーの周到な計画と、セルビア本国の外でのセルビア人の困難について述べている。 メモランダムはコソボに特に高い関心を寄せ、「コソボにおけるセルビア人が物理的、政治的、法的、文化的ジェノサイドの対象とされており、1981年以降は全面戦争が進行中である」と論じた。このメモランダムでは、1986年時点でのコソボのセルビア人の地位は、セルビアがオスマン帝国から解放された1804年以降で最悪となっており、ナチス・ドイツの占領下にあった第二次世界大戦時や、オーストリア=ハンガリー帝国と戦った第一次世界大戦時よりも悪いとした。メモランダムの著者らは、この20年間で20万人のセルビア人がコソボを去ったと主張し、急進的な改革がなければまもなくコソボからセルビア人はいなくなる、と警告した。メモランダムでは、その対処法として、「治安、およびコソボ・メトヒヤに住む全ての人々の明白な平等を保障すること」、そして「コソボを離れたセルビア人のコソボへの帰還を可能とする、永続的で実効性のある環境を作り出すこと」であるとした。メモランダムは「セルビアは、過去に見られたような、受身の姿勢で他者が何を言うかを待ってはならないとしている。 SANUメモランダムに対しては様々な反応があった。アルバニア人らは、これをコソボにおけるセルビア人優越主義を喚起するものであるとした。彼らは、コソボを去った全てのセルビア人は、単に経済的理由であると主張した。その他のユーゴスラビアの民族主義者、特にスロベニア人やクロアチア人は、セルビアの拡張主義の伸張であるとみた。セルビア人自身の見解は割れていた。多くのセルビア人らはこのメモランダムを歓迎した一方、古くからの共産主義の守護者らはこれを激しく非難した。メモランダムを非難したセルビア共産主義者同盟の指導者の一人に、スロボダン・ミロシェヴィッチの名があった。 1988年、コソボ自治州の行政委員会の首班が逮捕された。1989年3月、ミロシェヴィッチはコソボおよびヴォイヴォディナでの「反官憲革命」(en)を宣言し、これらの自治権を剥奪し、外出制限をかけ、コソボでの24人の死者が出た暴力的なデモを理由にコソボに対して非常事態宣言を発令した。ミロシェヴィッチとその政府は、セルビアの憲法変更はコソボに留まるセルビア人を、多数派を占めるアルバニア人による迫害から保護するために必要不可欠であるとした。
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