1970年代・安部公房スタジオとは? わかりやすく解説

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1970年代・安部公房スタジオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:30 UTC 版)

安部公房」の記事における「1970年代・安部公房スタジオ」の解説

1970年 (昭和45年)、大阪万国博覧会自動車館のシンクタンクとして参加する1971年 (昭和46年) 3月より新潮社雑誌『波』に「周辺飛行」と題するエッセイ連載を開始する。1972年 (昭和47年)、段ボール箱被ったまま生活する男を描いた小説箱男』を発表1973年 (昭和48年)、自身主宰する演劇集団安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時メンバーは、新克利井川比佐志伊東辰夫伊藤裕平、大西加代子、粂文子佐藤正文田中邦衛仲代達矢丸山善司、宮沢譲治山口果林12であった以後安部公房スタジオ堤清二後援のもとで渋谷西武劇場本拠地として活動する1975年 (昭和50年) 5月14日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士称号授与されるまた、この年6月連載完結した周辺飛行」を再編集した単行本笑う月』を11月刊行1977年 (昭和52年)、病院舞台とし、奇妙な病気かかった患者とその治療に当たる奇妙な医者たち描いた密会』を発表同年アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員推挙される。また、写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン渋谷区宇田川町にあった安部公房スタジオ稽古場訪れ安部ポートレイト撮影する1979年 (昭和54年) 5月安部公房スタジオ率いて渡米セントルイスワシントンニューヨークシカゴデンバー行なった『仔象は死んだ』の公演はその斬新な演劇手法反響呼んだ

※この「1970年代・安部公房スタジオ」の解説は、「安部公房」の解説の一部です。
「1970年代・安部公房スタジオ」を含む「安部公房」の記事については、「安部公房」の概要を参照ください。

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