1970年代 - 瀬戸大橋開通前とは? わかりやすく解説

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1970年代 - 瀬戸大橋開通前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 18:15 UTC 版)

下津井電鉄線」の記事における「1970年代 - 瀬戸大橋開通前」の解説

山陽新幹線岡山まで到達するようになった1970年代以降岡山県内の道路網が整備され児島地域から岡山倉敷へは乗り換えの必要がなく所要時間も短い自社バス利用客増加するようになり、それまで年間200 - 250万人前後推移していた下津井電鉄線利用客数1970年代初頭には150万人前後にまで急減した。このため1972年3月限り児島 - 茶屋町間14.5kmが廃止された。 この際下津井周辺狭隘地形ゆえに道路状況極端に悪くバスへの代替が困難であったため、下津井 - 児島間6.5kmのみが創業目的一つであった関西汽船関西急行フェリーによる下津井 - 丸亀航路との連絡輸送維持必要性もあって存続した。残存区間では全線を1閉塞区間とするスタフ閉塞変更ワンマン運転下津井駅以外の全駅を無人化という徹底的な合理化行い、さらに車両について短縮前に在籍した電車21両のうち、車齢が若く手のかからない新造車中心に6両のみを残して後はすべて廃車し、鉄道部門従業員10人のみで運営行ったその結果鉄道赤字バス事業などの他の事業補填できる額まで減らすことができた。 1983年には旅客誘致策としてモハ1001車両内外に乗客自由に落書きできる電車「赤いクレパス号」が登場、「落書き電車」として有名になった。また、映画テレビドラマロケーション協力積極的に進め映画悪霊島』では東下津井駅舎が使用されテレビ朝日系放映され石原プロモーション製作の刑事ドラマ『西部警察PART-III』岡山香川ロケ協力し関西テレビ製作の『裸の大将放浪記』、テレビ朝日制作の『土曜ワイド劇場』をはじめとした2時間ドラマ等のロケ使用されたが、利用客長期低落傾向1980年代通じて続き鉄道部門赤字出しながら自社バス部門収益財源とする内部補助存続していた。 モハ1001クハ24下津井駅1985年モハ103+クハ24下津井駅1985年クハ24+モハ103下津井駅1985年モハ102+サハ2+クハ22下津井駅1985年

※この「1970年代 - 瀬戸大橋開通前」の解説は、「下津井電鉄線」の解説の一部です。
「1970年代 - 瀬戸大橋開通前」を含む「下津井電鉄線」の記事については、「下津井電鉄線」の概要を参照ください。

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