1967 - 1993:第一次インティファーダ
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「パレスチナ問題」の記事における「1967 - 1993:第一次インティファーダ」の解説
「第1次インティファーダ」も参照 イスラエルは東エルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領し、国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。11月に国連安保理でイスラエルの承認、イスラエルの占領地からの撤退、中東地域の航海自由の保障、避難民問題の解決などを決議した(国際連合安全保障理事会決議242(英語版))。しかし、イスラエルの占領地については、英文版と仏文版で解釈が異なり、英文版では、必ずしもすべての占領地から撤退する必要はないと解釈できる余地があった。いずれにせよ、イスラエル、PLO及びアラブ諸国の双方共に、この時点では安保理決議242号に従わなかった。占領地では再び軍政が敷かれ(イスラエル国防軍軍律)、基本的にパレスチナ人など非ユダヤ人住民が軍律に拘束された。イスラエル軍は、一旦は占領地で被占領民の保護を定めた1949年のジュネーヴ第4条約に従うことを宣言した。しかし、10月22日付の命令144で、(ヨルダン川)西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原では、IDFはジュネーヴ第4条約に制約されないと布告した。これらの土地は、ジュネーヴ第4条約に規定された占領地には当たらないという、イスラエル側の主張に基づいている(国際法とイスラエル入植地(英語版)も参照)。 1973年10月にエジプトとシリアがイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、ラマダーン戦争)が勃発した。アラブ石油輸出国機構10カ国はイスラエルを占領地から撤退させるまで石油生産の5%以上を毎月削減するとの決議を可決し、石油危機が起こった。国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。 1974年10月、PLOが国連でオブザーバーの地位を獲得した。 アメリカによる和平交渉により1978年9月にキャンプ・デービッド合意が成立し、1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が調印された。これによりシナイ半島がエジプトに返還され、「土地と平和の交換(英語版)」と称された。PLOやアラブ諸国は、合意をエジプトの「裏切り」と強く反発し、エジプトはアラブ連盟を追放された(1990年復帰)。 1980年3月1日、国連安保理で、イスラエルが1967年以降、アラブ側の領土を占領し、またユダヤ人入植地を建設した行動を全て無効とし、速やかな撤退の要求の国際連合安全保障理事会決議465(英語版)を採択した。この時はアメリカも賛成に回ったが(棄権するつもりだったが間違えたと声明)、イスラエルはこの決議を無視した。 1981年、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、ユダヤ系ロビーやイスラエルの反対を押し切って、サウジアラビアに武器を輸出した。1978年4月にシナイ半島がエジプトに返還された。6月にイスラエルがレバノンに侵攻しレバノン戦争が起こった。PLOはベイルートから撤退した。9月にアメリカが中東和平案を提示し、アラブ首脳会議でフェズ憲章が採択された。 1987年にイスラエル占領地でパレスチナ人の抵抗運動である(第一次インティファーダ)が発生した。12月14日、反イスラエル・反PLOを主張する、抵抗運動組織ハマースが発足した。 1988年7月31日にはヨルダンがイスラエル占領下のヨルダン川西岸地区への領有権主張を取り下げ、PLOが唯一正統なパレスチナ人の代表であると宣言する。 同年11月15日、第19回パレスチナ民族評議会(PNC)でパレスチナ国家の独立宣言を行なった。前日の11月14日には、安保理決議242号、338号に基づく政治解決を求める決議を採択した。これにより、パレスチナの主流派は安保理決議242号を承認し、イスラエルの承認を前提として(二国家解決)、同決議に基づく国境線によるパレスチナの領有権を求める路線が確立した。 1990年、湾岸戦争でイラクがクウェートに侵攻した。イラクのサッダーム・フセイン大統領は、イスラエルのパレスチナ占領を引き合いに出し、クウェート占領を正当化しようとした。かねてからフセインと親交のあったPLOのヤーセル・アラファート議長(パレスチナ大統領)はイラクを支持したため、クウェートを含むアラブ諸国の反発を買い、援助も削減あるいは打ち切られ、苦境に陥った。
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