1876年アメリカ合衆国大統領選挙
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「サミュエル・ティルデン」の記事における「1876年アメリカ合衆国大統領選挙」の解説
1876年アメリカ合衆国大統領選挙のとき、ティルデンは一般投票で共和党の対抗馬ラザフォード・ヘイズよりも多くの票を獲得し、民主党が南北戦争後に政治の場に戻ってきたことを証明した。しかし、選挙人投票の結果は、フロリダ州、ルイジアナ州およびサウスカロライナ州がそれぞれ議会に2組の選挙人票を送ってきたために、問題ありとされた(この他にオレゴン州の選挙人1人についても論争が起こり、実質的に資格を剥奪された)。 共和党はレコンストラクションの間、南部の州政府を支配していたが、圧倒的に多い民主党支持白人には不人気であり、南部白人の多くは北部からの干渉と考えるものに不満を抱き、共和党を南北戦争の責任があるものと非難していた。その結果として、これら3州の選挙人票は1組が共和党のヘイズに投ずるものであり、もう1組は民主党のティルデンに投ずるものだった。これら3州を除いたときに、ティルデンは184の選挙人票を得ていたが、大統領に当選するには185票が必要であり、1票足りなかった。3州のうち1州でも取ればティルデンは大統領になれた。しかし、ヘイズが問題とされた3州全ての票を取れば、その選挙人票は185票となり当選するはずだった。アメリカ合衆国憲法には議会がそのような論争を解決する手段を規定していなかったために、憲法の危機が起ころうとしていた。 共和党が選挙結果について大胆に異議申し立てをする一方で、ティルデンは当選を求めて戦うでもなく、その支持者達に指導力を発揮するでもなく、支持者達を当惑させ失望させた。その代わりに、1ヶ月以上にわたって過去1世紀の選挙人票の完全な歴史を準備し、選挙人票を数えるのは上院議長ではなく、伝統的に議会の仕事であることを示すために費やされた。 議会の指導者達はこの危機を解決しようとして、15名の委員からなる選挙委員会を作り、どちらの選挙人票が有効かを決定させた。その委員としては共和党が多数である上院から5名(共和党員3名と民主党員2名)、民主党が多数である下院から5名(民主党員3名と共和党員2名)がまず決まった。残りの5名は合衆国最高裁判所から選ばれることとしたが、当所は共和党員2名と民主党員2名、さらに独立系の判事デイビッド・デイビスだった。しかし、デイビスがイリノイ州から合衆国上院議員に選出されたために最高裁判事を辞任した。共和党員のジョセフ・P・ブラドリー判事がその代役に選ばれた。委員会の票決では党の線に沿って8対7で3州の全投票をヘイズのものと裁定した。しかしこの論争は終わらなかった。民主党が上院における議事妨害をすると脅した。最終的に1877年の妥協がなり、民主党がヘイズの当選を認める代わりに、ヘイズは南部に駐在する連邦軍を引き上げることに同意し、南部における共和党のレコンストラクションを終わらせることになった。ティルデンはその敗北にあたって、「私は大衆の贈り物として最高位に選ばれ、しかもその職の心配や責任も無かったという評価を後世の人から受けることになるという意識を持って公的な生活に戻ることができる」と語った。 1878年、共和党機関誌『ニューヨーク・トリビューン』は一連の暗号による電文にその翻訳を付けて公開し、1876年の選挙に続く危機の間に、ティルデンの甥である選挙マネジャー(ティルデンの家を選挙本部に使っていた)が、サウスカロライナ州とフロリダ州の選挙人票を買収しようと交渉していたことを明らかにしようとした。ティルデンはこれらの電文について全く知らないと断固として否定したが、その甥が送ったことまでは否定しなかった。「暗号電文」はその評判を著しく弱めた。
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