ストライキの理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 03:53 UTC 版)
「1877年の鉄道大ストライキ」の記事における「ストライキの理由」の解説
南北戦争が終わったときに鉄道建設ブームが続き、1866年から1873年の間に大西洋岸から太平洋岸まで、およそ35,000マイル (56,000 km)の新線が建設された。当時鉄道産業は農業を除けば第2の雇用者数を抱える産業となり、多額の資金を必要とし、それなりの金融リスクも包含していた。投機家は大量の資金を鉄道産業に投資し、異常な成長を見ると共に過大な拡張となった。クックの会社は他の多くの銀行と同様に、預金を不釣り合いな比率で鉄道に投資していたので、崩壊への道を歩んでいたと言っても良い。ジェイ・クックが鉄道に直接資本を投入していたことに加え、この会社は連邦政府が鉄道建設に直接予算を充てる時の政府代理人にもなっていた。鉄道がまだ開発されていないあるいは住民が入っていない土地に建設される時には、政府だけが与えることのできる土地認可と貸金を必要とし、連邦政府の予算を確保するルートとしてジェイ・クックの会社を使っていたことは、クックの破産が国の経済に与えた影響をさらに悪いものにした。 1873年の恐慌に続いて、労働者と産業の指導者との間に激しい確執が拡がった。1877年までに賃金の10%がカットされ、資本家に対する不信と貧しい労働条件によって、列車を動かすことを妨げる多くの鉄道ストライキが発生した。この確執は不況が終わった1878年や1879年の後も長引き、結果的にその後の数十年間を特徴づける雇用不安という形で噴出し、アメリカにおける労働組合の誕生になった。 さらにサミュエル・ティルデンとラザフォード・ヘイズとの間で争われた1876年アメリカ合衆国大統領選挙では、一般投票でティルデンが明らかに勝っていたにも拘わらず、選挙人投票の結果は異議の出た票を除いて、ティルデン184票に対しヘイズ165票となり、ティルデンは憲法に定める過半数に達しなかった。このことで大統領の選出はアメリカ合衆国下院に委ねられたが、下院も結論を出せなかった。1877年1月29日、下院は15人の委員からなる選挙委員会を構成し当選者を決めさせる法案を可決した。両院のそれぞれから5名ずつの委員を選出し、残る5名は合衆国最高裁判所から選ばれた。トマス・アレクサンダー・スコット(ストライキの間に表面に出てきた)による調停のお陰もあって、委員会は議論の残っていた選挙人票20票を全てヘイズのものとした。このために国中の空気は暗いものとなり、ティルデンに投票したものは権利を奪われたように感じた。
※この「ストライキの理由」の解説は、「1877年の鉄道大ストライキ」の解説の一部です。
「ストライキの理由」を含む「1877年の鉄道大ストライキ」の記事については、「1877年の鉄道大ストライキ」の概要を参照ください。
- ストライキの理由のページへのリンク