1860年-1861年
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「モンロー砦」の記事における「1860年-1861年」の解説
モンロー砦は南北戦争で重要な役割を果たした。1860年12月20日、サウスカロライナ州がアメリカ合衆国から脱退する最初の州になった。4ヶ月後の1861年4月12日、サウスカロライナ州の軍隊がチャールストン港のサムター砦に砲火を開いた。5日後、バージニア州はアメリカ合衆国から脱退する8番目の州となり、新しく結成されたアメリカ連合国に加盟した。 エイブラハム・リンカーン大統領は直ぐにモンロー砦の守りを強化させ、南軍の手に落ちないようにした。ここは戦争の期間を通じて北軍が支配し、ここから北軍の海陸協働遠征軍が何度か出発した。 サムター要塞の戦いから数週間後、北軍総司令官ウィンフィールド・スコットがエイブラハム・リンカーン大統領にバージニア州を合衆国の中に戻す作戦を提案した。それは南部州にいる軍隊を攻撃する代わりに世界からアメリカ連合国を切り取るというものだった。そのアナコンダ計画はアメリカ連合国の海岸を封鎖し、砲艦でミシシッピ川流域を支配するというものだった。北軍は海軍との協力により、モンロー砦から支配地域を両カロライナ州海岸に拡げ、リンカーンは4月19日にサウスカロライナ州からリオ・グランデ川までの南部海岸封鎖を命令し、さらに4月27日にはそれをノースカロライナ州やバージニア州まで拡大することを命じた。 4月20日、北軍の海軍がノーフォーク海軍造船所を焼いて明け渡し、その過程で9隻の艦船を破壊し、バージニア州海岸地帯における北軍最後の拠点として、オールドポイント・コンフォートのモンロー砦のみが残ることになった。南軍はノーフォークを占領することで、唯一の主要造船所と数千の重砲を手に入れたが、そこは1年間しか持たなかった。ノーフォーク周辺の守備隊を指揮した南軍のウォルター・グウィン准将はスーエルズポイントに砲台を建設し、ノーフォークとハンプトン・ローズ双方を守らせた。 北軍は艦隊をハンプトン・ローズに派遣して封鎖を強行しようとし、1861年5月18日から19日にはモンロー砦に基地を置く砲艦がスーエルズポイントの南軍砲台と砲火を交わした。このあまり有名ではないスーエルズポイントの戦いは両軍に大した被害をもたらさなかった。南軍に対する陸軍の作戦も幾つか砦から発せられており、中でも1861年6月のビッグベセルの戦いが知られている。 1861年5月27日、ベンジャミン・バトラー少将がその有名な「コントラバンド」の決断を下したのがモンロー砦でだった。これによって北軍の前線内に到着した逃亡奴隷は束縛の身に戻らなくてもよくなった。この命令によってバージニア州におけるバトラーの作戦本部であるモンロー砦周辺の北軍前線に逃げてくる奴隷の波が生まれ、そこに到着すれば奴隷が自由になったので「自由の要塞」という渾名も付いた。 バトラーが指揮していた時のモンロー砦は、飛行船操縦者ジョン・ラマウンテンの指示で動く軍用気球の基地にもなった。北軍気球司令部は大統領の指名したタデウス・S・C・ロー教授の下に、アーリントンに近いコーコラン砦で発展したが、飛行船操縦隊長としてその地位を張り合っていたラマウンテンはバトラーの信任を得て、気球アトランティック号を使って空中偵察を行った。ラマウンテンは実用的な軍事情報となった空中基地からの報告を初めて成功させた者とされている。ラマウンテンは後にローの気球司令部に配属となったが、ローとの内輪揉めが続いた後で、軍役から解任された。ローは後にモンロー砦に正規の軍用気球を割り当てることになった。
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