エウニケ (小惑星)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 07:54 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動エウニケ 185 Eunike |
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分類 | 小惑星 |
軌道の種類 | 小惑星帯 |
発見 | |
発見日 | 1878年3月1日 |
発見者 | C・H・F・ピーターズ |
軌道要素と性質 元期:2007年4月10日 (JD 2,454,200.5) |
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軌道長半径 (a) | 2.739 AU |
近日点距離 (q) | 2.390 AU |
遠日点距離 (Q) | 3.087 AU |
離心率 (e) | 0.127 |
公転周期 (P) | 4.53 年 |
軌道傾斜角 (i) | 23.22 度 |
近日点引数 (ω) | 224.22 度 |
昇交点黄経 (Ω) | 153.94 度 |
平均近点角 (M) | 307.81 度 |
物理的性質 | |
直径 | 157.51 km |
自転周期 | 10.83 時間 |
スペクトル分類 | C |
絶対等級 (H) | 7.62 |
アルベド(反射能) | 0.0638 |
色指数 (B-V) | 0.668 |
色指数 (U-B) | 0.331 |
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エウニケ[1] (185 Eunike) は、小惑星帯に位置する大きくて暗い小惑星の一つ。原始的な、炭素化合物からなる星である。
1878年3月1日にアメリカ合衆国の天文学者、クリスチャン・H・F・ピーターズによりニューヨーク州クリントンで発見され、ギリシア神話に登場するネレイデスの一人で、「よき勝利」という意味を持つエウニケにちなんで命名された。これは1878年3月3日に結ばれたサン・ステファノ条約を記念したものだった。
2004年までに三度の掩蔽が観測された。
出典
- ^ “全世界の観測成果 ver.2 (Excel)”. 薩摩川内市せんだい宇宙館 (2018年3月3日). 2019年3月11日閲覧。
関連項目
外部リンク
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「185 Eunike」の例文・使い方・用例・文例
- 1850年代に.
- フランス第二帝政 (1851‐70).
- 185は 158 とあるべきもの.
- 「種の起源」 《Darwin の著書 (1859)》.
- 我が国がアメリカはじめ諸外国との通商を開始したのは 1858 年であった.
- あなたの1850の教会で、高価な設備の建築そのものと非人間的なバラックのような生活状況との劇的な対比を教会の部屋で見つけることはまれではない
- 1857年と1858年に多数の反乱に発展したインドにおける英国政権への不満
- ラクナウの英国人の居住者はインド暴動(1857)の間、インドの反対分子によって包囲された
- 1859年の戦いで、ナポレオン3世率いるフランスとサルデーニャ軍がフランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア軍を破った
- ナポレオン3世率いる仏・サルジニア軍とフランソワ・ジョセフ皇帝率いるオーストリア軍との決着のつかない1859年の戦い
- 順序を数える際の序数185
- 芸術と科学の無料講座を提供するためにピーター・クーパーにより1859年に設立された大学
- ソルフェリーノで戦争が行われた1859年に発見されたピンク色の染料
- 1526年から1857年まで支配したインドのムガル人征服者によって設立された帝国
- 1852年から1870年までのフランスにおけるナポレオン3世の皇帝政府
- そこに位置した武器庫を捕獲した廃止論者ジョン・ブラウンと彼の追随者により1859年の襲撃の現場となったウェストヴァージニア北東部の小さな町
- 1857年までインドを支配していたイスラム王朝の一員
- スウェーデンの化学者、物理学者で、化学的解離の理論で知られる(1859年−1927年)
- 米国の鳥類学者、芸術家(ハイチ生まれ)で、アメリカの鳥の絵で有名(1785年−1851年)
- ドイツの一連の旅行ガイドブックの出版社(1801年−1859年)
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