17-21世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:07 UTC 版)
コンウィ城は、17世紀初頭(1609年)には再び荒れ果てていた。1627年にチャールズ1世はエドワード・コンウェイ(英語版)に100ポンドで売り払い、またエドワード(英語版)と称されたエドワードの長子が、1631年に廃址を相続した。1642年にイングランド内戦がチャールズの国王派と議会派の間で勃発した。ヨーク大司教(英語版)ジョン・ウィリアムズ(英語版)が国王派として城を掌握すると、自己資金でその修復および駐屯に取り掛かった。1645年、ジョン・オーウェン(英語版)が代わりに城の総督に任命されたことで、2人の間に激しい論争に至った。大司教は議会に寝返り、コンウィの町が1646年8月に落ちると、11月にトマス・マイトン(英語版)少将が大包囲戦の後にようやく本城を取った。その後トレヴァー家(英語版)はマイトンに、彼らが大司教に貸与した城にある所有物の返還を請願している。 包囲戦の後にジョン・カーター (John Carter) 大佐が城の総督に任命されると新たな修復がなされた。1655年に議会より任じられた国務会議は、城を廃城 (slighting)、ないしこの先軍事的に使用させないよう命じた。「パン焼の塔」(Bakehouse Tower) は同年、廃城の一環として故意に一部が破壊された。1660年のチャールズ2世の王政復古とともに、コンウィはコンウェイ伯(英語版)のエドワード・コンウェイ(英語版)に返還されたが、5年後エドワードは残存する鉄や鉛を城から剥ぎ取ってそれを売り払うことに決めた。その作業は、コンウィの主たる市民による反対にも関わらず、エドワード・コンウェイの看守ウィリアム・ミルワード (William Milward) の監督のもとに完了し、城を完全な廃墟に変えた。 18世紀末には、この城の遺構は美しく(ピクチャレスク)崇高なものとして、訪れる者や芸術家を引き付け、J・M・W・ターナー、トマス・ガーティン(英語版)、J・C・イベットソン(英語版)、ポール・サンドビー(英語版)、モーゼス・グリフィス(英語版)など多くの画家に描かれた。 嵐の後の虹とコンウィ城(ジョージ・バレット・シニア(英語版)、1778年頃) コンウィ城、ウェールズ(ウィリアム・ホッジス、1790年) 東からのコンウィ城(ジョン・イングルビー(英語版)、1795年) 19世紀にはコンウィ川を渡って町とサンディドゥノ(英語版)(スランディドノウ)を結ぶ1826年の道路橋(コンウィ吊橋)や1848年完成の鉄道橋(英語版)がそれぞれ建設された。こうした交通網の進歩で旅行者の数は一層増加した。1865年にコンウィ城は、コンウェイの嗣孫より引き継いでいたホランド家 (Holland family) からコンウィの町の市政幹部に渡された。その後、損傷した「パン焼の塔」の復元など、廃址の修復作業が始まった。1953年、城は建設省(英語版)に貸し出されると、アーノルド・テイラー(英語版)が広範囲にわたる修理と城の歴史調査を始めた。1958年には城に向かう新たな道路橋が建設された。先にイギリス指定建造物として保護されていた城は、1986年には「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」として世界遺産の一部に登録された。 21世紀、コンウィ城はカドゥ(英語版) (Cadw) により管理されている。城は継続的な保全および修繕が必要であり、2002年会計年度(2002-2003年)の費用に約3万ポンドを要している。観光の名所として2010年には18万6897人が城を訪れ、新しいビジターセンターが2012年に開設された。2018年の来訪者は20万1961人であった。 2019年10月29日に兵庫県姫路市において姫路城と姉妹城提携を結び、ウェールズとの文化、芸術、教育、観光の交流促進を趣旨とする活動が始まった。
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