23歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 16:31 UTC 版)
『23歳』 | ||||
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KAN の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
ジャンル | J-POP | |||
時間 | ||||
レーベル | zetima | |||
プロデュース | KAN | |||
チャート最高順位 | ||||
KAN アルバム 年表 | ||||
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EANコード | ||||
EAN 4942463759858 (EPCE-7598/9) | ||||
『23歳』収録のシングル | ||||
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リリック・ビデオ | ||||
『エキストラ』Lyrics Video - YouTube |
『23歳』(にじゅうさんさい)は、2020年11月25日にアップフロントワークス(zetimaレーベル)から発売されたKAN17作目のオリジナル・アルバム[2]。KANの遺作である。
概要
CD+DVDの2枚組となっており、DVDに本作のレコーディング・ドキュメンタリーを収録。
新作は『6×9=53』以来、約5年ぶりとなる。CD発売と同時にダウンロードも開始された[3]。
アルバムのコンセプトは「10曲10ジャンルのノン・フェイドアウト・アルバム」[2]。
『エキストラ』は、リリック・ビデオが制作されており、KANの公式YouTubeチャンネルで公開されている。
収録曲
CD
全作詞・作曲: KAN(except:5,7)、全編曲: KAN(except:5)。 | ||
# | タイトル | 時間 |
---|---|---|
1. | 「る~る~る~」 | |
2. | 「23歳」 | |
3. | 「ふたり」 | |
4. | 「君のマスクをはずしたい」 | |
5. | 「キセキ」(作詞・作曲・編曲: KAN+) | |
6. | 「メモトキレナガール」 | |
7. | 「コタツ」(作詞・作曲: ヨースケ@HOME・KAN) | |
8. | 「ほっぺたにオリオン」 | |
9. | 「ポップミュージック」 | |
10. | 「エキストラ」 | |
合計時間: |
DVD
Recording Documentary『58歳』
# | タイトル | 時間 |
---|---|---|
1. | 「る~る~る~」 | |
2. | 「ポップミュージック」 | |
3. | 「ほっぺたにオリオン」 | |
4. | 「ふたり」 | |
5. | 「コタツ」(KAN+) | |
6. | 「キセキ」 | |
7. | 「メモトキレナガール」 | |
8. | 「君のマスクをはずしたい」 | |
9. | 「23歳」 | |
10. | 「エキストラ」 | |
合計時間: |
カバー
エキストラ
外部リンク
- 公式サイト
- 【23歳】【LIVE SUMMIT G7】【ポップミュージック】 - KAN オフィシャルウェブサイト
- 23歳 KAN - UP-FRONT WORKS
- リリック・ビデオ
- KAN『エキストラ』Lyrics Video - YouTube
- 歌詞
- 「る〜る〜る〜」 - 歌ネット
- 「23歳」 - 歌ネット
- 「ふたり」 - 歌ネット
- 「君のマスクをはずしたい」 - 歌ネット
- 「キセキ」 - 歌ネット
- 「メモトキレナガール」 - 歌ネット
- 「コタツ」 - 歌ネット
- 「ほっぺたにオリオン」 - 歌ネット
- 「ポップミュージック」 - 歌ネット
- 「エキストラ」 - 歌ネット
- インタビュー
脚注
出典
- ^ “23歳 | KAN”. ORICON NEWS. 2021年6月20日閲覧。
- ^ a b “KAN「23歳」インタビュー”. 音楽ナタリー (2020年12月17日). 2021年11月25日閲覧。
- ^ “KAN新作アルバム「23歳」配信スタート!”. J.P ROOM (2020年11月25日). 2021年11月25日閲覧。
2 - 3歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 06:56 UTC 版)
「ローゼンクロイツ (競走馬)」の記事における「2 - 3歳」の解説
2004年10月17日、京都競馬場の新馬戦でデビュー。デビュー戦は2着に敗れる。その後、未勝利戦を勝利し、京都2歳ステークスでは後にドバイワールドカップに挑戦するヴァーミリアンや皐月賞2着のシックスセンスなどに勝利する。しかし、その後のラジオたんぱ杯2歳ステークスではヴァーミリアンの2着に敗れる。 年が明け2005年の毎日杯を制し重賞初制覇、クラシック候補として名乗りを上げるも、ディープインパクトからは離れた2番手候補という扱いであった。レースの方も皐月賞は9着、東京優駿は8着と惨敗であった。この頃から輸送が苦手と指摘されていたが、休養を経た秋には阪神競馬場で行われた初戦の神戸新聞杯を3着と好走し復調の兆しを見せると京都競馬場での本番菊花賞でも3着に食い込み、関西のレースでは力のあるところを見せつけた。
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2 - 3歳(1995 - 1996年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:12 UTC 版)
「スキップアウェイ」の記事における「2 - 3歳(1995 - 1996年)」の解説
1995年6月16日、モンマスパーク競馬場のメイドン競走でデビューし、4着。2戦目のブラックタイプ競走グリテッドタイムスステークス2着を経て、3戦目のメイドン競走で初勝利を挙げる。その後しばらくはカウディンステークス(英語版)、レムゼンステークス(英語版)でともに2着など勝ちきれない競馬が続いたが、3歳を迎えて初戦のアローワンス競走で2勝目を挙げた。G1競走初出走のフロリダダービーでアンブライドルズソングの3着ののち、ブルーグラスステークスでルイカトルズ(英語版)を6馬身差下して重賞初勝利。アメリカクラシック三冠路線に進み、ケンタッキーダービーでは19頭立ての12着。結果的にこれが生涯最低着順となった。続くプリークネスステークスとベルモントステークスでは続けて2着に入り、オハイオダービー(英語版)1着ののち出走のハスケルインビテーショナルステークスでG1競走初勝利を挙げる。トラヴァーズステークス3着を挟み、ウッドバイン競馬場に遠征して出走のウッドバインミリオンでG1競走2勝目。10月ベルモントパーク競馬場でのジョッキークラブゴールドカップステークスでシガーに挑み、最後の直線で競り合った末にシガーを頭差下して勝利。3歳時は以降は出走しなかったものの12戦して6勝、そのうちG1競走を3勝してエクリプス賞最優秀3歳牡馬に選出された。
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2 - 3歳(2001 - 02年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:24 UTC 版)
「ファインモーション」の記事における「2 - 3歳(2001 - 02年)」の解説
2001年12月1日、阪神競馬場の新馬戦(芝2000メートル)に武豊が騎乗してデビュー。スタートから先頭に立ち、後続に4馬身の差をつけて逃げ切り勝利した。逃げたにも関わらず、上がり3ハロンのタイムは出走メンバー中最速を記録した。例年関西の有力馬が出走する阪神芝2000メートルの新馬戦で牡馬相手に楽勝したことから大きな注目を集め、武は「海外で競馬をさせたい」と発言。陣営はフランス1000ギニー、フランスオークスへの出走登録までしていた。外国産馬のためにクラシック出走権はなく、またデインヒル産駒の特徴である立派な上体と、脚元の未熟さを兼ね備えていたため、伊藤は馬体の充実するのは4歳であると判断。フランス遠征もなく、放牧に出された。 2002年8月、函館競馬場の500万円以下(芝2000メートル)で復帰。騎手は松永幹夫に乗り替わりとなる。伊藤は65パーセントの出来としていたが、好位から見せムチのみで5馬身差で2連勝。続いて伊藤いわく75 %の出来で、8月25日の古馬混合1000万下競走・阿寒湖特別(芝2600メートル)に出走し、好位から追われることなく5馬身差で3連勝とした。 9月15日、秋華賞のトライアル競走であるローズステークス(阪神芝2000・GII)に単勝オッズ1.2倍の1番人気に推されて出走、伊藤は80 %の出来であるとしていた。スタートから好位に取り付き、桜花賞優勝馬のアローキャリーや重賞優勝馬相手に、強く追われることなく3馬身差で優勝した。松永は「まだ能力の半分も出していない」と証言している。 続いて、10月13日の秋華賞(京都芝内2000・GI)に参戦。騎手には武が復帰。伊藤は出来を85 %としていたが、単勝オッズ1.1倍 (支持率72%) の1番人気に支持される。この支持率は、グレード制導入以降のGI競走では最高の記録であった。スタートから先行する馬群の外側に位置取り、直線で馬なりのまま抜け出した。武が追うのを途中でやめるほど差が広がり、後方に3馬身半差をつけて先頭で決勝線を通過した。走破タイム1分58秒1は、レースレコードタイであった。5連勝でGI初勝利、無敗のまま牝馬三冠競走の最終戦を制したのは初めてであった。伊藤は、マックスビューティ、シャダイカグラ、エアグルーヴで制した桜花賞、優駿牝馬(オークス)と併せて、牝馬三冠トレーナーとなった。また武は、5月の東京優駿(日本ダービー)をタニノギムレットで制して以降、騎乗したGI5戦連続優勝を果たした。 11月10日、エリザベス女王杯(京都芝外2200・GI)に出走。古牝馬の一線級および、同世代の優駿牝馬優勝馬スマイルトゥモローと初めての顔合わせとなったが、単勝1.2倍の1番人気に推された。スタートで折り合いを欠いたが、先行馬の背後に収まる好位に位置した。直線でも伸び、ダイヤモンドビコーに2馬身半差で優勝した。上がり3ハロン33.2秒はメンバー中最速であった。デビューから6戦目で古馬GIを制したのは史上最短の記録であり、無敗での古馬GI制覇は史上初であった。 年末の有馬記念のファン投票では3位に支持され、同レースに出走。シンボリクリスエスなど古牡馬の一線級と初めて顔を合わせたものの、単勝オッズ2.6倍の1番人気に支持された。スタートから先行したがかかってしまい、なおかつタップダンスシチーに構われたことでペースが崩されて5着に敗れた。武は「直線でも『グッ』とくるものがなかった」と回顧している。年末のJRA賞では、JRA賞最優秀3歳牝馬を受賞した。
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2-3歳(2011年-2012年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:27 UTC 版)
「スピルバーグ (競走馬)」の記事における「2-3歳(2011年-2012年)」の解説
2011年10月15日、東京競馬場の2歳新馬戦でデビューし、1着。年内は出走がなく、年明けて2012年の初戦となった500万条件ではフェノーメノの2着、共同通信杯ではゴールドシップの3着、500万条件4着を挟んで出走の毎日杯でも3着に終わるが、続く東京優駿(日本ダービー)のトライアル・プリンシパルステークスを制する。東京優駿では14着に終わり、秋競馬にも出走が予定されていたが、結果的に1年超の長期休養に入る。
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2-3歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 14:29 UTC 版)
2000年8月16日にドーヴィル競馬場でデビューして6着、次走で初勝利を挙げた。 3歳時はマイルを中心に出走していった。年内初戦の準重賞マッチェム賞を快勝した後、5月13日にプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)に出走、ノヴェルの2着に敗れた。イギリスへ遠征して出走したセントジェームズパレスステークスでも4着に入っているが、惜敗ばかりで未だ重賞勝ちを収められずにいた。 ところが、7月25日にフランスギャロはノヴェルから禁止薬物のメチルプレドニソロンが検出されたと発表、ノヴェルのプール・デッセ・デ・プーラン優勝も取り消し、失格処分となった。これによって、2着であったヴァオリミクスは急遽繰り上がりで優勝馬となり、競走から2ヶ月過ぎてから突如G1馬の称号を手にした。 8月19日、G1馬の称号を手にして初戦となるジャック・ル・マロワ賞に出走、ここはプラウドウィングスに及ばず2着に敗れた。しかし、審議によってプラウドウィングスが競走中の斜行によって失格、2位入線のヴァオリミクスが繰上げで優勝馬となった。ヴァオリミクスはG1を繰り上がりによって2度も優勝したことになった稀有な馬として、一時的に各国の競馬マスコミなどで話題にされた。 このあと、ムーラン・ド・ロンシャン賞とクイーンエリザベス2世ステークスにも出走したが、6着・5着とこれといった結果は残せなかった。これをもってこの年で引退、ノルマンディスタッドで種牡馬入りすることになったが、生殖能力に問題があり、種付けすることができない体であった。そのため種牡馬入りを撤回、再び競走馬として復帰することになった。この際、去勢されてせん馬になっている。 2003年にコンペーニュ競馬場で再デビュー、初戦の一般戦では1着、続くロンシャン競馬場の一般戦でも勝って好調をアピールした。しかし重賞ではG3でも力及ばず、8月17日のジャック・ル・マロワ賞(この年は日本からテレグノシスやローエングリンも出走していた)で9着に敗れたのを最後に再度引退した。
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2-3歳(2003-2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:34 UTC 版)
「ダイワメジャー」の記事における「2-3歳(2003-2004年)」の解説
秋になり、姉のダイワルージュも手がけた上原博之厩舎に入厩。厩舎でも力の強さと神経質さでスタッフを振り回したが、非常な大器であるという点で関係者の見解は一致していた。 2003年12月28日、中山開催の新馬戦で菊沢隆徳を鞍上にデビュー。当日の装鞍所では上原が「あんなに暴れる馬を見たのははじめて」といい、競馬会から出走取消を打診されたほど激しく暴れ、さらにはじめて衆目の前に出た競走前のパドックでは、地面に腹這いになってしまうという珍しい姿をみせた。本馬場入場後にも腰を下ろそうとする仕草を繰り返したことからウォーミングアップもできず、そのまま発走となる。スタートでは出遅れて後方からのレース運びとなったが、向正面から進出を開始し、勝ったモンスターロードからクビ差の2着に入った。なお、上原はパドックでの様子について「パニックの一種だと思う。脚を蹴り上げて騒ぐのもパニックなら寝てしまおうというのもパニック。どうしていいか、自分でも分からなくなってしまったのだろう。それにここまで暴れすぎて疲れてしまった。そして、ヘナヘナと腰を下ろしたくなった。そんなところだろう」と語っている。馬主の大城敬三はダイワメジャーの性格的な部分を一切知らされておらず、パドックで寝た姿を見て非常に驚いたという。 翌2004年1月17日に中山・ダート1800メートルの未勝利戦で2戦目を迎える。落ち着かせるために調教助手の飯田直毅が装鞍所からパドックまで跨がり続け、鞍上の菊沢隆徳に交代してからは前走とは異なり返し馬(待機所への移動を兼ねたウォーミングアップ)もこなすことができた。レースは最後の直線だけで後続に9馬身の差を付け、初勝利を挙げた。走破タイム1分56秒4は、前週に同条件で行われた古馬(4歳以上馬)1000万下条件戦のタイムを0秒2上回る優秀なものだった。 次戦には自己条件戦のカトレア賞に登録したが除外となり、やむなく初勝利時と同じダート1800メートルの条件戦に出走したが、当日は単勝オッズ1.4倍の人気を裏切り4着と敗れる。クラシック三冠初戦・皐月賞への出走権確保のため、3月21日にはスプリングステークス(皐月賞トライアル)で重賞に初出走。当日は16頭立て11番人気の評価で、レースではコーナリングが不安定な様子も見せたが、先行策から3着に粘り、皐月賞への優先出走権を得た。これ以前に厩舎では、知らない場所に行くと興奮するダイワメジャーの性格を矯正しようと様々な試行錯誤を重ね、さらに「怪我をさせてはいけない」と従来控えめに行っていた調教を厳しいものに変えていたが、ダイワメジャーは厳しい調教で却ってストレスを発散させ、精神状態がよくなる様子がみられたという。 4月18日の牡馬クラシック初戦・皐月賞では、社台ファーム代表の吉田照哉の進言で、騎手はそれまで騎乗した菊沢隆徳からイタリア人騎手のミルコ・デムーロに替わった。当日は五十嵐冬樹を鞍上に据えるホッカイドウ競馬のコスモバルク、スプリングステークスの勝利馬ブラックタイドが人気を分けあうなか、ダートで1勝という実績のダイワメジャーは10番人気であった。 スタートが切られるとダイワメジャーはメイショウボーラーに続く2番手につける。前半1000メートル通過は過去10年で3番目に早い59秒7というタイムで進むなか、ダイワメジャーは最終コーナーでメイショウボーラーに代わり先頭に立つ。最後の直線ではそのまま逃げ粘り、追いすがるコスモバルクに1馬身4分の1差を付けての優勝。母スカーレットブーケ、姉ダイワルージュが果たせなかったクラシック制覇を遂げた。調教師の上原、馬主の大城にとっても、これが初めてのGI制覇であった。走破タイム1分58秒6はコースレコードに0秒1差という好内容であり、また1勝馬の皐月賞制覇は1950年のクモノハナ以来、実に54年ぶり6頭目の記録であった。 上原は「今日は落ち着いていたし、この馬にとって良いペースだったので、安心して見ていられた」「子供っぽい面はまだあるが、覚えてしまえば上手な競馬をしてくれる。ダービーが楽しみになった」と、クラシック二冠目・東京優駿(日本ダービー)への期待を口にした。鞍上のデムーロにとっては前年のネオユニヴァースに続く皐月賞連覇であったが、競走後には「ネオユニヴァースと同じくらい力があると思う」と語り、同馬が達成したクラシック二冠について「頑張ってもらいたい」と述べた。馬主生活30数年というキャリアの末にGIタイトルを手にした大城は、「ゴールに入った瞬間は、ちょっと恥ずかしくて言えない」という状態だったという一方で、2着コスモバルクの騎手がダイワメジャーを矯正した五十嵐冬樹だったことに、「五十嵐騎手は複雑な気持ちだったと思う」とも述べた。 5月30日、クラシック二冠が懸かる日本ダービーへ出走。ダイワメジャーには皐月賞から400メートル延びる2400メートルという距離についての不安が囁かれ、当日の人気では皐月賞に出走せずNHKマイルカップ(GI)を5馬身差・レースレコードで圧勝したキングカメハメハ、コスモバルク、青葉賞(GII)の勝利馬ハイアーゲームに次ぐ4番人気となった。スタートが切られると、1000メートル通過57秒6というハイペースを5番手で追走、最後の直線では3番手を追走していたコスモバルクともども伸びを欠き、レコードタイムで優勝したキングカメハメハの6着に終わった。 ダービーのあとは故郷・社台ファームで夏を過ごし、秋は三冠最終戦の菊花賞ではなく古馬相手となる天皇賞(秋)を目標とすることが決まる。9月26日、柴田善臣を鞍上にオールカマー(GII)で復帰し、同じくここから始動したダービー3着のハイアーゲームに次ぐ2番人気の支持を受ける。しかしレースでは2番手追走から最後の直線で失速し、最下位9着と敗れる。10月31日に迎えた天皇賞(秋)では12番人気と評価を落とし、結果も勝ったゼンノロブロイから4秒離された2戦連続の最下位17着に敗れた。 ダイワメジャーには皐月賞の頃から呼吸器の筋肉が麻痺し、気道が狭まり走行中の呼吸に支障を来す喘鳴症の兆候が出ており、この頃にはそれがすっかり悪化していたのであった。喉から独特の呼吸音がすることから、俗に「ノド鳴り」とも呼ばれるこの疾病は、かつて兄・スリリングサンデーも発症し、古くはタニノムーティエ、近い年代ではゴールドアリュールといった一流馬が引退に追い込まれていた。獣医師の所見では、その病状は「5段階で4から5」「正常時の60パーセントから70パーセントしか空気が入っていかない」という重いものであり、上原は引退も視野に入れていた。しかし大城、吉田とも協議の上で治療が試みられることになり、11月19日、社台ホースクリニックで手術が行われた。手術自体はさして難しくないものの、競走能力が戻る例は1~2割とされ、その見通しは「治る可能性は低いが、やれるだけのことはやってみよう」という程度のものであった。
※この「2-3歳(2003-2004年)」の解説は、「ダイワメジャー」の解説の一部です。
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2-3歳(2009-10年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:57 UTC 版)
「ヒルノダムール」の記事における「2-3歳(2009-10年)」の解説
2009年、2歳の10月に昆厩舎へ入厩。11月14日、東京競馬場の新馬戦(芝2000メートル)に藤田伸二が騎乗してデビュー。坂路で良い動きを見せていたこともあり1番人気に推されたが、アリゼオにクビ差及ばず2着に敗退。11月29日、京都競馬場の未勝利戦(芝1800メートル)では1番人気に推され、中団待機から抜け出し、後方に3馬身離して初勝利を果たした。続いて年末のラジオNIKKEI杯2歳ステークス(JpnIII)で重賞初挑戦となったが、ハミを取ることなく走り、4着に敗れた。 2010年を迎えて3歳となり、1月26日の若駒ステークス(OP)に出走。ルーラーシップが1番人気に推され、次ぐ2番人気という評価であった。中団内側から直線で抜け出し、外に持ち出すルーラーシップをかわして1馬身半差をつけて勝利を果たした。藤田は「ゲートさえ出れば負ける気はしなかった」と回顧している。続いて皐月賞のトライアル競走の中から、メンバーが手薄という昆の判断から若葉ステークス(OP)に出走、単勝1.3倍の1番人気に支持された。後方待機から2番人気のペルーサに常にマークされる展開となり、抜け出しを図る直線では外からペルーサにかわされて2着に敗れた。 皐月賞(GI)では、後方待機から第3コーナー、最終コーナーで外から位置を上げた。しかし、内を選んだ1番人気のヴィクトワールピサには届かず、ヴィクトワールピサに1馬身半遅れて2着となった。上がり3ハロンは、メンバー中最速の35.0秒を記録した。続いて東京優駿(日本ダービー)(GI)に3番人気の支持で出走したが、9着に敗れた。(競走に関する詳細は、第77回東京優駿を参照。) 夏休みを経て、札幌記念(GII)から菊花賞(GI)に直行のローテーションを設定。計画通りに札幌記念、菊花賞に上位人気で出走したが、どちらも敗退。続いて、12月4日の鳴尾記念(GIII)では1番人気に支持されるも、直線で内に斜行するなどもあり、ルーラーシップに敗れた2着となった。
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2-3歳(2009年-2010年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:47 UTC 版)
「コスモメドウ」の記事における「2-3歳(2009年-2010年)」の解説
2009年12月20日の新馬戦でデビュー。16頭立ての14番人気とまったく注目されていなかったが、5着と好走する。好走はするもののなかなか勝てず、初勝利は6戦目となる2010年4月4日の未勝利戦だった。その後9月と11月に条件戦で勝利している。
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2-3歳(2012-13年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:47 UTC 版)
「コパノリチャード」の記事における「2-3歳(2012-13年)」の解説
2012年11月4日、京都競馬場の新馬戦(芝1400メートル)に岩田康誠が騎乗し、2番人気でデビュー。スタートからハナを奪い、後方に2馬身差をつけて逃げ切り初勝利。それから12月2日、千両賞(500万円以下)は2番手で先行、最終コーナーで抜け出したが、直線でカオスモスにかわされ2着。年をまたいで、3歳、2013年1月12日の白梅賞(500万円以下)では、短期騎手免許で来日したイギリスの騎手、ウィリアム・ビュイックが騎乗。逃げて、直線では独走、後方に5馬身差をつけて入線し、2勝目となった。 続いて2月23日、アーリントンカップ(GIII)で重賞初出走。ビュイックが続投し、単勝オッズ2.2倍の1番人気の支持。千両賞で先着を許したカオスモスが3.3倍、重賞2着の経験があるラブリーデイが5.7倍という上位人気であった。スタートから先行、逃げ馬に次ぐ2番手に位置した。直線で抜け出し、背後から追うカオスモスに1馬身半差をつけて先頭で入線、重賞初勝利となった。 その後は、皐月賞(GI)、NHKマイルカップ(GI)に出走。中でも皐月賞は、馬主歴10年の小林にとって初のクラシック出走であった。それぞれ5番人気、4番人気の支持であったが、13着、8着に敗退。獲得賞金から東京優駿(日本ダービー)への出走も可能だったが見送り、放牧に出された。秋は、9月29日のポートアイランドステークス(OP)で復帰、浜中俊とコンビを結成した。古馬との初対決となり、17頭立てブービー賞となった。 それから10月26日のスワンステークス(GII)に出走。重賞3勝のマジンプロスパーが2.8倍、GI2勝のグランプリボスが4.6倍で1、2番人気を占める中、コパノリチャードは8番人気20.5倍であった。スタートからハナを奪って逃げ、最終コーナーでは2番手のマジンプロスパーに並ばれながら通過。直線では、マジンプロスパーが伸びあぐねる中、差を広げて独走となった。追い込む後続は、失速するマジンプロスパーを差し切ったのみ、それらに1馬身4分の3差をつけて先頭で入線した。重賞2勝目、3歳馬によるスワンステークス制覇は、2004年のタマモホットプレイ以来9年ぶりであった。 続いてマイルチャンピオンシップ(GI)は4着、阪神カップ(GII)は10着に敗れた。
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2、3歳
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2003年にデビュー。9月15日のJRA認定競走の2歳新馬戦で石崎隆之が騎乗しデビュー勝ちをしたあと、翌年まで休養する。 2004年、騎手が佐藤隆に乗り替わって、4月13日の3歳戦と5月12日の東京湾カップを勝利し、デビューから土つかずの3連勝で東京ダービーに出走する。東京ダービーではそれまで5戦無敗、それもすべて4馬身以上の着差をつけて勝利していたベルモントストームがいたため単勝2番人気となったが、スタートから先頭に立つ逃げの策で、2着のキョウエイプライドに2馬身2分の1差を付けて勝ち、4連勝で東京ダービーを制した。 その後はジャパンダートダービー4着、黒潮盃3着と敗れ、日本テレビ盃(2着)からは内田博幸に乗り替わる。続くJBCクラシックでアドマイヤドンの2着に善戦すると、年末の東京大賞典では、ジャパンカップダートを勝ったタイムパラドックスやダービーグランプリに勝利したパーソナルラッシュらを破って逃げ切り勝ちをおさめ、地方競馬所属馬では2001年のトーホウエンペラー以来3年ぶり、南関東所属馬では1998年のアブクマポーロ以来6年ぶりに同競走の勝利となった。
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2・3歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 05:24 UTC 版)
2歳9月にデビュー。5着に敗れるも2戦目から4連勝。韓国3歳三冠競走の有力馬に名乗り出るが、4月のKRAカップマイルは8着、5月のコリアンダービーは3着だった。秋に入り慶尚南道知事杯で重賞初制覇すると、三冠競走ラストの農林水産食品部長官杯、大統領杯を立て続けに制覇。年末のグランプリでは11着に大敗するも、この年の釜山慶南競馬場の最優秀内国産馬を受賞した。
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「23歳」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は23歳で処女作を出版した
- 23歳の誕生日おめでとう。
- これは私の23歳の誕生日に買ってもらいました。
- 私は19歳から23歳までその大学に通いました。
- 私は19歳から23歳までその大学に通った。
- 私は23歳までここで育ちました。
- 23歳
- 23歳の松坂投手は,プロ選手として6年目で年俸2億円に達した3人目の高卒の選手で,唯一の投手となった。
- 37年前に受賞したとき,彼は23歳と1か月だった。
- 大会は,これらの23歳以下の選手たちで,3月1日にアラブ首長国連邦で始まる。
- 3月18日,日本の23歳以下のサッカーチームがアラブ首長国連邦と対戦し,3―0で試合に勝ったのだ。
- 23歳の同横綱は,今年,1度の取組も負けていない。
- この事故で,23歳の列車運転士を含む107人が死亡,460人が負傷した。
- 23歳の新人であるパトリック選手は,200周中56周目に,インディ500でトップに立つ初めての女性となった。
- ある日,マゴリアムおじさんは,引退して,23歳の支配人モリー・マホーニー(ナタリー・ポートマン)に店を譲り渡すと発表する。
- ファーガソン監督はロナルド選手を賞賛し,「彼はまだ23歳。選手は26歳になったころに成熟し始める。彼はまだ始まったばかりだ。」と語った。
- 23歳のときに初めて単独で太平洋を横断航海して以来,堀江さんは単独無寄港世界一周航海やリサイクル素材でのヨット作り,ウエーブパワーボートでの航海など,長年にわたって多くの功績を残してきた。
- 錦(にし)織(こり)圭(けい)選手は23歳の米国人テニスプレーヤーのライアン・スウィーティング選手と決勝で対戦した。
- 3月14日,東京の国立競技場で,サッカーの23歳以下の日本代表チームがバーレーンを2-0で破り,今夏のロンドン五輪の出場権を手にした。
- 23歳の照ノ富士関はモンゴル出身だ。
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