黒海における運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:59 UTC 版)
「第二次世界大戦におけるルーマニア海軍」の記事における「黒海における運用」の解説
ソビエト連邦によるコンスタンツァ襲撃への応戦が、ルーマニア海軍にとっての緒戦かつ唯一の艦隊主力による戦闘となった。マラシュティ、レヂーナ・マリーア、アミラル・ムルヂェスクの3隻は、ルーマニア指揮下のドイツ軍ティルピッツ沿岸砲台からの支援下でキーロフ級軽巡洋艦ヴォロシーロフとレニングラード級駆逐艦ハリコフ、モスクワ、爆撃機SBに対する防戦を行った。この戦闘でルーマニアの損失は燃料タンク数基に留まり、ソビエトはモスクワが回避行動の結果機雷原に進入し、沈没した。 1941年7月9日、黒海に面したマンガリア付近で、砲艦ロコテネント・コマンドール・スティーヒ・エウヂェン(ロシア語版)が潜望鏡を発見、水雷艇ナルカ、魚雷艇ヴィスコルル、ヴィジェリャに連絡した。当初SC型潜水艦Shch-206はナルカに対して20mm砲を発砲、その後潜航したが、3隻の爆雷により撃沈された。 1941年7月15日、スリナ近海でソビエト連邦空軍によって機雷敷設艦アゥロラが撃沈された。これが、第二次世界大戦でルーマニア海軍が失った最大の艦艇となった。 1941年12月17日、ベッサラビア付近の沿岸でブルガリア、ハンガリー両国の船団護衛中のレヂェーレ・フェルディナンドが、爆雷により船団に魚雷攻撃を行い失敗したM型潜水艦M-59を撃沈した。 1942年10月1日、ドイツ輸送船ザルツブルクを攻撃し、沈没させたM-118が、ドイツの飛行艇BV 138Cにより発見された。砲艦スブロコテネント・ギクレスクとロコテネント・コマンドール・スティーヒ・エウヂェンが向かい、爆雷によって撃沈した。 1944年4月から5月にかけてのクリミアからの撤退戦は、ルーマニア海軍にとって第二次世界大戦でもっとも複雑かつ大規模な作戦となった。4月15日から5月14日まで、多数のドイツ、ルーマニア両国の艦艇がセヴァストポリとコンスタンツァを結ぶ船団を護衛した。作戦規模と重要性により、当時の黒海で枢軸国最大の艦である駆逐艦4隻を擁するルーマニアの駆逐艦隊全てが作戦に加わることとなった。もっとも激しい戦いは、最終段階となった5月10日から14日にかけて発生し、沿岸からの砲撃と航空機による攻撃にさらされ続けながら、3万人以上を輸送した。ルーマニアは18,000人を輸送し、両国の船団は113,000人をクリミア半島から脱出させた。その内63,000人以上は、4月15日から25日にかけての第一段階によるものである。この作戦によりルーマニア海軍の司令官ホリャ・マチェラリウ少将は騎士鉄十字章を授与された。この撤退戦でルーマニア海軍に損失した艦はなかったが、不発に終わったもののレヂェーレ・フェルディナンドが航空爆弾の直撃を燃料タンクに受けている。不発弾は、作戦終了後数日して撤去された。4月25日から5月10日に至る第二段階では、セヴァストポリ付近で2つの戦闘が発生した。4月18日には、L型潜水艦L-6がスブロコテネント・ギクレスクからの2度の爆雷投下により損傷、多数の気泡が生じた。その後、ドイツ駆潜艇UJ-104によってL-6は撃沈された。4月27日には、スブロコテネント・ギクレスクとMFP揚陸艇PTA-404と406を含む船団が、UJ-104を攻撃したG-5型魚雷艇(英語版)3隻と遭遇。スブロコテネント・ギクレスクからの曳光弾に照らされた魚雷艇に対して攻撃が行われ、G-5型魚雷艇TKA-332が被弾、沈没した。 1944年8月20日にソビエト連邦によるルーマニア侵攻作戦であるヤッシー=キシナウ攻勢が開始され、同日にソビエト連邦空軍によって行われたコンスタンツァに対する大規模な空襲により、水雷艇ナルカを失った。その後1944年8月23日に、ルーマニア革命が発生し、ルーマニアは降伏した。
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