飛鳥時代・奈良時代の家族制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
「日本の女性史」の記事における「飛鳥時代・奈良時代の家族制度」の解説
ツマドヒ婚 男女の出会いの場は市場や郊外であったが、特に歌垣は絶好の機会となった。出会いは求愛(ヨバヒ)と求婚(ツマドヒ)に発展した。ヨバヒは男性からのアプローチが多いが、女性から行われることもあった。ヨバヒは女性の母の監視のもとで行われた。ツマドヒのツマは夫と妻を指す言葉で、ツマドヒは男女双方から行われた。婚姻は女性側の親族に同意を得ることで成立し、男性側には規定がなかった(戸令嫁女条)。ヨバヒもしくはツマドヒが成立すると、その印として男女双方からツマドヒノタカラを贈る。 婚姻が成立すると女家が成婚式を手配するが男性側の出席者は本人のみであり、家同士の結婚ではない。また改姓もしなかった。婚姻生活は妻屋(ツマヤ)にどちらかが通う形で行われ、夫婦は育児で共同生活することはあっても基本的には別居であった。理由なく3か月以上往来が無い場合は離婚が成立したとみなされた。また妻が訪ねてきた夫を拒否する場合も離婚とみなされた。以上のように夫婦の結びつきは緩やかであったが、その理由として自立して収入や財産を持っていた豪族や貴族の女性は経済的に男性に依存する必要がなかった事や、庶民も子育ては村の親族の助け合いの中で行われていたことが考えられる。子供は母の元で育つことが多く、夫婦の財産は子供が男女平等に相続した。なおこの頃は同父同母兄弟での婚姻以外はタブー視されていない。とくに異母兄弟の婚姻は珍しくなかったが、これは母系制が残存し異母兄弟は別居しているので近親的意識が低かったことが要因と考えられている。 戸籍制度 日本で最初の戸籍は天智天皇9年(670年)の『庚午年籍』とされる。唐の制度を取り入れたため、儒教的家族秩序が見られる。家長を筆頭に20数人程度の親族が記されている。妻と妾が書き分けられ、子供も嫡子と妾子に区別されているが、地位に差はなかった。子供は父姓を継ぐので父系といえるが、母系も把握されており実質的には双系制であったと考えられる。こうした戸籍を一見すると家父長制であったように見えるが、このころの戸籍は課役管理をするための台帳であり、実際の家族形態を反映するものではなく、一般には山ノ上碑にあるように父母両方の系譜を引く双系制であったと考えられる。 8世紀頃から土地財産の私有が拡大されると親族の結びつきが弱くなっていき、流動的な婚姻関係にあった女性が困窮することが出てくる。9世紀に編纂された『日本霊異記』には貧しい母親に対し扶養しない夫や、母を養わない子供夫婦の説話がある。こうした話は社会的な変化により、女性が安定した家族生活を得られる結婚を選択するようになる世相を反映したものと考えられる。
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