電気街・電脳街として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:19 UTC 版)
「大須 (名古屋市)」の記事における「電気街・電脳街として」の解説
終戦の翌年の1946年(昭和21年)に商店主らが「大須盛り場同盟」を結成し、大須の復興を目指した。戦後復興期には、名物の土産物屋などが再建したり大須野球場ができたり、名古屋の繊維街・家具街・仏壇仏具街ともなり、歓楽街としても域内の映画館が14館に及ぶなど復活を遂げた。 しかしその後は、都市計画によってデパート・百貨店・地下街が整備された名駅地区や栄地区に客が流れた。大須は古くからの繁華街であったが故にそうした開発をされず、栄の繁栄に圧迫されるようになった。その栄とも100m道路により分断されると人の流れも断絶。さらに1972年に名古屋劇場が火災で焼失した事や、大須まであった市電が廃止、多数あった映画館がテレビの普及で次々と潰れたこと、モータリゼーションの波に乗れなかったなども重なって大いに寂れ、昭和40年代になるとシャッター商店街と化した。全国でも先駆けで当時としては非常に珍しいことであったが、その閑散ぶりは凄まじく、僅かな人通りは年配の参拝者くらいで、昼間のアーケード下でキャッチボールすら可能だったと伝わっている。 1975年に、こうした状況に危機感を抱いた名城大学の助教授・学生が、「アクション大須」を実施。閑散とした商店街を再び人の集う場所へと、大道芸人の芸の場としてや学生祭の延長会場にしたようなお祭りであったが、これが大盛況を収めた。これに刺激を受けた若手商店主達により第二回アクション大須、更に大須大道町人祭と続く。また「ラジオセンターアメ横ビル(現 第一アメ横ビル)」を建設し、ここへ秋葉原から招致した家電店やパソコンショップなどが入居した。同年に名古屋市営地下鉄鶴舞線が開通し、周辺・遠方とのアクセスも良くなり、上前津駅に加えて大須観音駅もできた。これらを契機として客の足が大須に向くようになり、更に商店街へ電器店やパソコンショップが集まって、秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に次ぐ電気街として発展し、日本三大電気街の一つに数えられるようになった。その後、秋葉原同様に、電子街、電脳街、オタク街としても発展していった。 しかし秋葉原、日本橋とは異なり、この地方では時計・カメラ系量販店(ウォッチマン・アサヒドーカメラ・トップカメラ)が家電・パソコン・携帯電話などを販売していた他、大須自体がアーケード商店街がメインだったため、郊外型家電量販店の台頭に加え、名古屋駅前の大型店進出(ビックカメラ名古屋駅西店、ヤマダ電機LABI名古屋)により、秋葉原、日本橋の例と同様に電気街としては縮小傾向にある。また、電脳街としてもグッドウィルや九十九電機などが店舗統・廃合するなど、名古屋駅近辺に進出したビックカメラグループ(ビックカメラ・ソフマップ)やヤマダ電機などの影響や業界再編の波で縮小傾向にある。なお、前述のグッドウィルや中京マイコン、アプライド(旧コムロード)では美少女ゲームに店舗独自特典を付けて販売する事でも知られる。
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