集客力への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 18:07 UTC 版)
「アメリカ合衆国のボクシング中継」の記事における「集客力への影響」の解説
テレビ・ラジオからの放送権料が入場料収入を初めて超えたのは1952年のことだった。テレビ・ラジオを合わせた放送権料は480万ドルに上り、前年度の倍以上となった一方で、入場料収入は460万ドルに落ち込んでいた。しかしこの年、テレビ中継のある興行でメインイベンターを務める選手たちのファイトマネーは上昇傾向にあり、およそ2000ドルから3000ドルであった。1953年5月のロッキー・マルシアノ対ジャージー・ジョー・ウォルコット戦は68.7パーセント、同年2月のキッド・ギャビラン対チャック・デイビー戦は67.9パーセントの視聴率を記録した。米国のボクシング興行を支配していたIBC(インターナショナルボクシングクラブ)は毎週水・金曜日に定期番組を提供し、週に9万ドルの放映権料を受け取っていた。しかしテレビ中継の隆盛は、ボクシングは試合会場で観るものではなくテレビで観ればよいものと、観る者の意識を変えていった。米国のボクシング市場を支えてきた中小のクラブファイトは活気を失い、大手の会場でも集客数は激減していった。マディソン・スクエア・ガーデンでは1943年に33興行が行われ、40万6681人の観客から206万2046ドルの入場料収入があったが、1953年には30興行で観衆15万2928人、入場料収入62万9775ドルまで落ち込んだ。マディソン・スクエア・ガーデンは1953年に176万8000ドルをテレビ局から受け取ったものの、レストランやホテルなどを通じて顧客から得られた収入は激減していた。また、1952年に300あったファイトクラブは1950年代の終わりには50足らずしか残っていなかった。 1959年6月、ヤンキー・スタジアムで1万8215人の観衆が見守る中、インゲマル・ヨハンソンがフロイド・パターソンをTKOに下し、世界ヘビー級王座を奪取。この試合は入場料収入面では失敗であったが、CCTVからは100万ドル以上の放映権料が支払われた(パターソンが1957年8月にメルボルン五輪ヘビー級金メダリストピート・ラデマッハーとそのプロデビュー戦で行った防衛戦では入場料収入24万3030ドル、CCTV収入20万9556ドル。1958年8月のロイ・ハリスとの防衛戦では入場料収入23万4183ドル、CCTV収入76万3437ドル、視聴者19万6762人)。ヨハンソンは競技以外にも歌手・俳優・ビジネスマンとして能力を発揮し、リングの外でも莫大な財産を築いたが、翌1960年6月のパターソンとのリマッチでKO負けを喫し、王座を失った。この試合では3万1892人の観衆からの入場料収入は82万4814ドルだったが、50万人が視聴したCCTVからは200万ドルの収益があった。 しかし1950年代の終わりから地上波の視聴率は下がり始めた。1953年に主なテレビ局の中継番組は31パーセントの視聴率を上げていたが、1959年には10.6パーセントまで落ち込んでいた。世界王者ロッキー・マルシアノのプロモーターは、ニュース映画とCCTVに放映権を売り、大球場で試合を開催するほうが実入りがよいと考え、マルシアノの6度の防衛戦のうち地上波と契約したのは1度だけであった。
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