関税改革論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 23:55 UTC 版)
「アーサー・バルフォア」の記事における「関税改革論争」の解説
第二次ボーア戦争は1902年5月に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、予想外の長期戦は予想外の膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政は赤字となっていた。それを補うために各種増税が行われ、その一環で1902年3月に蔵相サー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵は穀物関税再導入を暫定的かつわずかな額でという条件で実施していた。 1902年7月に首相ソールズベリー侯爵と蔵相ヒックス・ビーチがそろって辞職し、代わってバルフォア内閣が成立したが、11月の閣議において植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンはビーチの導入した穀物関税を永続化させつつ、帝国特恵関税制度(英語版)を導入して大英帝国内の関税は安くする事を主張するようになった。つまり大英帝国の結び付きを強化して自給自足経済圏の建設を目指すとともに、帝国外からの関税収入をもって均衡財政と社会保障費の確保を図ろうという保護貿易主義であり、自由貿易主義や小英国主義とは真っ向から対立する発想だった。そのため自由貿易主義者の蔵相チャールズ・リッチー(英語版)はチェンバレンの主張に強く反発した。 バルフォアはリッチーよりはチェンバレンに好感を持っていたが、それによって政権が分裂する事態だけは回避したいと考えていた。リッチーは穀物関税を廃止しないつもりなら辞職すると脅迫するようになり、それに対してチェンバレンが譲歩したため、バルフォアは1903年3月末にも穀物関税廃止を閣議決定した。 しかしチェンバレンは持論を諦めておらず、1903年5月15日にも本拠地のバーミンガム市で関税改革(帝国外への関税導入と帝国特恵関税制度の導入)を訴えた。この演説以降、関税問題は政界と世論を二分する大論争となった。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対し、綿工業資本家も自由貿易によって利益をあげていたので保護貿易には反対だった。一方、工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した。 閣内ではリッチーの他、枢密院議長デヴォンシャー公爵やインド担当相ジョージ・ハミルトン卿などがチェンバレンに反対した。若き新米保守党議員ウィンストン・チャーチルも自由貿易を奉じてチェンバレンに反対している(彼は1904年に自由党へ移籍する)。自由帝国主義派と小英国主義派に分裂していた自由党も自由貿易支持・反チェンバレンの旗のもとに一致団結した。 しかし関税は食品価格の上昇をもたらさない報復関税に使用することも可能であり、バルフォアとしてはそれを支持してチェンバレンの主張に一理を認めていた(チェンバレンも食料関税は当面見送るべきと主張していた)。バルフォアは両者の妥協点を探って何とか鎮静化させようと努力したが、結局閣内で孤立したチェンバレンは1903年9月21日に植民地大臣を辞した。以降チェンバレンはバルフォアの側面支援を受けながら主要工業都市で関税改革の世論を盛り上げる遊説を開始する。 バルフォアはバランスを取るために強硬自由貿易主義者の蔵相リッチーも内閣から追放する意思を固めた。1903年10月9日にも「首相に対する陰謀を図った」としてリッチーら自由貿易主義閣僚を解任した。デヴォンシャー公爵については閣内にとどめようとしたが、結局公爵も自由貿易主義者の圧力を受けて辞職することになった。これによってバルフォア内閣の基盤はだいぶ弱くなった。
※この「関税改革論争」の解説は、「アーサー・バルフォア」の解説の一部です。
「関税改革論争」を含む「アーサー・バルフォア」の記事については、「アーサー・バルフォア」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から関税改革論争を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 関税改革論争のページへのリンク