長期的な出来事
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「ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件」の記事における「長期的な出来事」の解説
この暗殺事件はフツの過激派からはツチと講和による戦争終結を求めるフツ穏健派に対する大量殺戮計画を実行に移すためのシグナルとして捉えられた。ここから勃発したルワンダ虐殺による犠牲者数は一般に80万人と推計されている。これに対しRPFは侵攻を開始し、1994年8月までにルワンダ全土を掌握し新政権を樹立した。周辺諸国に逃れた難民はUNHCRの推計で210万人に達したが、これは一部にはRPFの報復を恐れたためであると共に、ジェラール・プルニエなどは「難民キャンプをルワンダ奪還に向けた軍事拠点にしようとする旧フツ政権指導部による計画的な疎開であり、その意味では戦争の継続だった」としている。この結果、大湖沼地域難民危機 (en) は著しく政治性と軍事性を高め、1996年にRPFによる隣国ザイール(当時。現コンゴ民主共和国)との国境地帯の難民キャンプに対する越境攻撃が始まるに至った。この尖兵となったコンゴ国内の反体制派コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(仏略: AFDL, 英略: ADFL)はモブツ政権の転覆を謀り(第一次コンゴ戦争)、1997年5月にザイールのモブツ・セセ・セコ政権は打倒され、国名はコンゴ民主共和国に改められた。1998年、コンゴの大統領となったローラン・カビラはより従順な政権を求める諸外国から支持を失い、新たな内戦状況に陥った。これから生じた第二次コンゴ戦争 (1998-2003) には8ヵ国が介入し、犠牲者数において第二次世界大戦以来最悪の武力紛争となった。その後も内戦の完全な沈静化には至らず、犠牲者数は540万人とも言われる。 一方で、ンタリャミラ大統領の死去は前年から内戦が再発していたブルンジの状況をも悪化させたが、これはルワンダ、コンゴの状況悪化と相互に関連して、互いに煽り煽られる様相となった。2005年に挙国一致政権が樹立されるまでに30万人以上が犠牲となった。 4月6日の暗殺に続く何れかの時点で、ハビャリマナ大統領の遺体はザイールのモブツ・セセ・セコ大統領の下に移送され、ザイール(現コンゴ民主共和国)のバドリテに位置する非公開の安置所で保管された。モブツ大統領は遺族に対し最終的には遺体をルワンダに正式に埋葬すると約束した。1997年5月12日、ローラン・カビラ率いる反体制派コンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (ADFL) がバドリテに迫ったことから、モブツ大統領は防腐処理の施された遺体を輸送機でキンシャサに移し、キンシャサ国際空港のエプロンに駐機した輸送機内で三日間待機させた。モブツ大統領は反体制派による冒涜を危惧して遺体を火葬することとしたが、中部アフリカには火葬の習慣がないため、国内に定住していたインド人のヒンドゥー教司祭に祭儀を委ねた。モブツ大統領がザイールから逃亡する前日の5月15日に火葬が執行された。
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