大統領の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 22:25 UTC 版)
「マッキンリー大統領暗殺事件」の記事における「大統領の死」の解説
チョルゴッシュはその夜全てを告白した。「私は私の義務を果たすためにマッキンリー大統領を殺した。私は一人の男があのように多くの任務をこなし、他の者はなにもしないでいるべきではないと思った。」と述べた。彼は翌日さらに詳細を語り、単独でやったと主張したが、それでも数日後のゴールドマンの逮捕を止められなかった。 チョルゴッシュが大統領を殺したと主張しているのとは対照的に、マッキンリーはまだ生きているだけでなく、回復しているように思われた。7日土曜日、マッキンリーの容態は良く、寛いで会話もできた。彼の妻が面会を許され、マッキンリーはコーテルユーに「私のスピーチは気に入られたかい?」と尋ねた。彼の病床から9月8日に送られた速報では、「大統領は夜を快適に過ごし、今朝のその容態は全く期待が持てる。彼の心は爽快でよく憩んでいる。8時半に傷の手当てをし、大変満足のいく状態であることが分かった」と言っていた。 マッキンリー内閣の閣僚大半がバッファローにやってきたし、旧友で元選挙対策本部長であったマーク・ハンナ上院議員も駆けつけた。セオドア・ルーズベルト副大統領は、大統領が撃たれたという一報が入った9月6日は、バーモント州での午餐会に出席していた。ルーズベルトとその一党は直ぐにバッファローに向かい、7日に到着した。しかし、10日までにマッキンリーが回復を続けており、ルーズベルトが居ることはもはや不必要に見えたので、広報のためにもその日にバッファローを離れることにした。ルーズベルトは妻や家族が既に行って待っているアディロンダック山脈に行って、ハイキングの休暇を楽しもうとした。同様にマーク・ハンナや閣僚達も危機は去ったと思われたのでバッファローを離れた。 大統領は回復を続けた。9日の速報では、「大統領の容態は日に日に満足の行く状態に向かっている。不測の事態は起こりそうになくなった」としていた。10日の速報では、「今朝の大統領の容態は医師団に拠れば著しく満足の行くものである。厄介な問題が起こらなければ、急速な回復が期待できる」というものだった。マッキンリーは口から水を飲み、滋養浣腸を続けた。11日、大統領は牛肉の肉汁を口から摂ったが、これは狙撃以来初めて胃に入れた食糧だった。この日の速報では、「回復を続けており、容態はよい方向のままである」としていた。12日、マッキンリーは初めて固形食を摂り、内容はトースト・アンド・エッグおよびコーヒーだったが、「味わうことはできず、ほとんど食べなかった」 12日遅く、大統領の容態が悪化し始めた。頭痛と吐き気を訴え、脈拍数は増加し速く弱かった。マッキンリーは汗をかき、落ち着きがなくなったが、意識ははっきりしていた。13日朝の速報では、「大統領の容態は重篤であり、深刻な事態も考えられる」とした。この日は13日の金曜日で、マッキンリーは急速に衰弱を始めた。ハンナや閣僚達はミルバーンの家に戻った。マッキンリーは、その弱い脈を改善するためにアドレナリンと酸素を与えられた。その容態は悪化を辿ったので、マッキンリーは医師団に「もう無用だ、諸君。教誨師を呼んだ方が良いと思う」と言った。後に意識が遠のく中で、賛美歌の「主よ御許に近づかん」(Nearer, My God, to Thee)の中のフレーズを呟いた。午後6時15分の速報では、「大統領の医師団は、大統領の容態が極めて重態であると言っている。...これが回復しなければ、時間の問題に過ぎない」としていた。 悲嘆に暮れたハンナ上院議員は「大統領閣下、私の声が聞こえますか?ウィリアム!私が分かりますか?」と言った。マッキンリー大統領は、感染症と壊疽に侵され、9月14日午前2時15分に息を引き取った。
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