長官の動向
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「キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件」の記事における「長官の動向」の解説
爆発が起こった時点で委任統治の長官だったジョン・ショウは彼のオフィスにいた。オフィスはホテルの南側部分にあったが、崩壊した西側ではなく東側にあった。ユダヤ人の過激派組織は死者が出た責任をショウに転嫁しようとした。 ベギンはホテルから避難させることを怠った責任がショウにはあると述べた。警察官がショウに電話し「ユダヤ人がホテルに爆弾をしかけたと言っています。」と伝えると、ショウは「私はユダヤ人から命令を受けるためではなく、命令を与えるためにここにいる。」と応じたと語る。1947年のイルグンの広報誌Black Paperではショウはホテルから退去することを禁じたと述べている。「彼は職員に持ち場を離れないよう命じた。結果彼の同僚は亡くなったが、彼はこそこそ逃げ回った。ショウはこのように100人近い人間を死に至らしめたのである。この中にはヘブライ人や我々の同士も含まれていた。」と記してある。 ベギンは参謀長イスラエル・ガリリから事件翌日の7月23日にこの話を聞いていた。ベサルのインタビューにおいてガリリは、ショウについての話は後にイスラエルの情報機関の長となるボリス・グリエルからのものだと言う。ボリスはAP通信局長のカーター・ダヴィッドソンから聞いたとガリリは答えている。サーストン・クラークはガリリとグリエル両者にインタビューを行い、そこではグリエルは情報元であったことを否定している。ガリリはショウが警告を受けていたという証拠を何一つ提示できなかった。カーター・ダヴィッドソンは1958年に亡くなってしまったので、ガリリが言ったことについて確認は取れなくなってしまった。ショウについての話は実際のところ「イルグンから批判を逸らすためにハガナーが吹聴した根拠の無い噂で、責任をショウに被せようとしたものだ。」とクラークは評価している。イルグンの幹部だったシュムエル・カッツは後に「その話はもう終わりにしてもいいだろう」と記した。 1948年、ベギンとイルグン広報誌の主張を繰り返し報道する新聞Jewish Londonに対しショウは名誉毀損の訴訟を起こした。新聞は弁護できずショウに対し全面的に謝罪した。ショウがユダヤ人から指図は受けないと言ったという主張について「そのようなことは今まで述べたことはないし、私を知る者なら性格的にそういうことはないと思うだろう。ユダヤ人に対しそのようなことを口にしたことは一切無い。」と述べた。 同じく1948年にはアメリカ人著述家ウィリアム・ジフは著書The Rape of PalestineでBlack Paperに書かれていたような話を載せている。そこでは大きな爆発が起こる何分か前にショウはホテルから逃げ出し、同僚を見殺しにしたと書かれている。ショウはまた名誉毀損の訴訟を起こした。イスラエルの弁護士はジフの話を肯定する証拠を見つけられず、出版社は発行を停止しショウに謝罪した。 事件当時ホテルの近くにいたイギリスの証人は全て、ショウの言ったことを信じているとベサルは言う。彼らは、ホテルから脱出できる余裕を持って警告が送られてきたことはなかったと言う。また、ショウはあらかじめ爆弾について知られていなかったし、同僚の生命についても責任は存在しないと語る。唯一の批判はショウはレストランの営業を停止し、従業員入り口に守衛を配置すべきだったというものだった。ショウはこれについて過失だったと認めている。なぜ何も行動を起こさなかったかについては、誰もが表面上正常であるかのように命令をこなしていたし、社会生活を継続させなければならなかった。さらに政庁にはユダヤ人も多く雇われていたのにイルグンが彼らを危険に晒す真似はしないだろうと信じていたからだと述べた。 爆破事件から2ヵ月後、ショウはトリニダード・トバゴの高等弁務官に任命された。イルグンはただちに郵便爆弾を送りつけたがショウに届く前に解除されてしまった。
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