銃撃事件に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:08 UTC 版)
「チャールズ・ホイットマン」の記事における「銃撃事件に至るまで」の解説
1966年7月31日、すなわち銃撃事件を起こす前日、ホイットマンはホームセンターで双眼鏡とナイフを、セブン-イレブンでスパムを購入した。夏季の臨時で電話交換手の仕事に出ていた妻を迎えに行き、大学の近くにあるワイアット・カフェテリア (英: Wyatt Cafeteria) で母と昼食をとった。 午後4時ごろ、ホイットマンと妻は親友であるジョン・モーガン (英: John Morgan) とフラン・モーガン (英: Fran Morgan) の元を訪れた。午後5時50分にモーガンのアパートを出て、妻は午後6時から午後10時のシフトについた。 午後6時45分、ホイットマンは遺書をタイプし始めた。遺書の一部には、自分が異常な考えにとりつかれていたと書かれていた。自分が死んだ後に、死体に検死を行うことを求めるという旨のことも記されていた。自分の行動や、止まらないうえにますます激しくなる頭痛に、生物学的な一因があったか確認してもらうためである。 自分の母と妻を殺害すると決断したとも書かれていた。殺害する理由ははっきりしないとしたうえで、母は人生を楽しむ資格があったが、その割には人生を楽しむことがなかったと思うといったことや、妻は自分にとっては世の男が望むほどの良き妻だったと思うといったことが記されていた。さらに、妻と母をこの世の苦しみから解放させたい、自分の行動から屈辱を受けることのないようにしたいと書かかれていた。大学を襲撃する計画であるとは言及していなかった。 8月1日の午前0時過ぎ、ホイットマンは車でグアダルプ・ストリート (英: Guadalupe Street) 1212番地にある母のアパートに向かった。母を殺害すると、遺体をベッドの上に安置し、遺体にシーツを被せた。ホイットマンが母をどのように殺害したかは議論されているが、公式には意識不明の状態にしてから心臓を刺したとされている。ホイットマンは遺体のそばに手書きのメモを残した。メモには、自分のしでかしたことに動揺している、天国があるのであれば母は必ず天国にいる、間違いなく心から母を愛していたという旨のことが記されていた。 その後、ホイットマンはジュエル・ストリート (英: Jewell Street) 906番地にある自宅に戻った。そして、妻が眠っているときに、心臓を3回刺して殺害した。遺体にシーツを被せ、前日の午後にタイプライターで書いたメモを再開した。ページの端にボールペンで次のように書き足した。 Friends interrupted. 8-1-66 Mon. 3:00 A.M. BOTH DEAD. (直訳すると「友人の邪魔が入った。1966年8月1日月曜日午前3時。2人が死んだ」) それからメモ書きを続け、最後にペンでいくらかの文章を記した。2人を惨たらしく殺したように見えるだろうが、素早く仕事を済ませようとしただけのことであるというようなことや、自分の生命保険で自分の借金を返済し、残りの金を精神医学財団に匿名で寄付することを望むということ、それは似たような悲劇を防げるかもしれないからだということ、飼い犬を義理の家族に渡してほしいということ、自分の死体を検死後に火葬してほしいといったことが書かれていた。 ホイットマンは貸家に、カメラのフィルム2巻を現像するようにという指示を残していた。また、2人の弟それぞれに私的なメモも用意した。 最後に、ホイットマンは"Thoughts for the Day" (直訳すると「その日のための考え」) と記された封筒に記述を残した。その封筒には訓告を記したものが集められていた。封筒の外側に次の言葉を書き足した。 8-1-66. I never could quite make it. These thoughts are too much for me. (直訳すると「1966年8月1日。全くうまくいかなかった。こんな考えはもうたくさんだ」) 午前5時45分、ホイットマンはベルシステムの妻の監督者に電話をして、妻は病気だから仕事に出られないと説明した。5時間後に母の職場にも同様の電話をした。 ホイットマンの日記の最後の書き込みは過去形で書かれていた。このことから、妻と母を殺害した後に記したことが示唆される。
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