都心のオアシス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 04:35 UTC 版)
天正11年(1583年)に始まった秀吉による大坂城下の整備は当初上町台地上に展開されたが、慶長3年(1598年)に行われた大坂城三の丸の造営によって惣構堀内となった東横堀川以東・空堀以北に居た町人たちは惣構堀外に移され、船場などの下町へ町人地の中心が移った。上町という呼称もこれ以降に起こったものである。 上町は東横堀川以東の市街地を指す地域名称で、西から松屋町筋、骨屋町筋、御祓筋(熊野街道)、善安筋、谷町筋、上町筋などの道路が南北に通じている。船場に隣り合う地域は内町や東船場とも呼ばれ、船場に対応する形で「内○○町」という町名がいくつかある。なお、現行住居表示の上町は昭和19年(1944年)に上本町1丁目(旧)が改称したもので、昭和54年(1979年)に広小路町や寺山町などをさらに編入したものである。 大坂夏の陣後に大坂城下の復興にあたった松平忠明は、豊臣期に惣構堀内となっていた渡辺・玉造の地に再び町人地を置くこととし、伏見からの移住者を中心に再興を図った。ただし、町人地にならなかった箇所も点在しており、それらは玉造平野口町の高津屋吉右衛門に肝煎させて西成郡吉右衛門肝煎地となった。一方、惣構堀外となる空堀跡以南に広がっていた屋敷地や町人地は破却されて年貢地(畑地)となり、空堀跡は吉右衛門肝煎地、五條宮に至る屋敷地・町人地は東成郡北平野町村や南平野町村(現在の東平や上汐)といった年貢地となった。船場の南、島之内に隣り合う地域は御用瓦師に払い下げられて瓦土取場となったが、この辺りは古来高津瓦や高原焼の産地でもあった。また、後の大阪大空襲による被害が少なかったため、戦前の木造建築なども残っている。 空堀跡以南の変化において屋敷地・町人地の破却に増して大きかったものは、四天王寺にかけて寺町群が形成されたことである。大阪市中に点在していた寺院のうち浄土真宗以外の寺院が上町台地上に移転され、東成郡小橋村・東高津村・天王寺村・西成郡西高津村領内に、小橋寺町(12ヶ寺)・八丁目東寺町(11ヶ寺)・八丁目中寺町(15ヶ寺)・八丁目寺町(13ヶ寺)・谷町筋八丁目寺町(16ヶ寺)・生玉筋中寺町(24ヶ寺)・生玉中寺町(12ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)・天王寺寺町(14ヶ寺)・下寺町(25ヶ寺)が形成された。 以後今日に至るまで寺院の木々の緑が上町台地を彩っている。歴史のある寺や神社、四天王寺七宮や天王寺七坂と呼ばれる台地西端の崖地を降りる坂道、空襲から焼け残った空堀や谷町六丁目付近の長屋の家並みや商店街、上六の繁華街、昭和町・田辺・帝塚山などの戦前の郊外に当たる屋敷町、天王寺公園など、上町台地には緑の少ないと言われている大阪市の都心でありながら、風情や緑のある所が数多く残されている。
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