道長・頼通まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 04:51 UTC 版)
安和の変による源高明の追放、次いで源兼明の皇族復帰によって他氏排斥が完了した後は、藤原北家の内部で権力争奪が行われることとなった。安和の変後、冷泉・円融両天皇の外戚であった藤原師輔の子である藤原兼通・兼家兄弟が摂関の座を争って互いにその出世を妨害しようとした。 権中納言から後継の関白の地位を得た兼通は、内覧・内大臣を経て関白に就任した。兼通に関白就任に必要な大臣の資格を与えるために内大臣が72年ぶりに設置された。だが、兼通の上位には左大臣源兼明と右大臣藤原頼忠(後の関白)がおり、兼通はその次の席次であった上に、兼明は一上として太政官の実権を掌握していた。そこで兼通は太政大臣に就任して源兼明を皇族に復帰させて左大臣を止めさせる詔勅を出させ、頼忠を一上に任命した。兼通は自身の子弟を公卿に昇進させてその世襲化を図ったが、息子達を公卿に任じ終えた直後に病死したために挫折した。 兼通によって長年不遇であった兼家は一条天皇の外祖父として摂政に就任した。兼家は右大臣であったものの、上位に太政大臣藤原頼忠(前関白)・左大臣源雅信がおり、雅信が一上であった。頼忠・雅信排除の名目を見出せなかった兼家は、自ら右大臣を辞して替わりに准三宮の待遇と一座宣旨を受けて、前大臣でありながら摂政後に関白として百官の上位に就いた。以後、摂政・関白の宮中での席次は、太政大臣よりも上位と考えられるようになったが、一方で摂関は陣定に出席しないことが慣例となった(「寛和の例」)。兼通は4人の子息と義弟を公卿に昇進させ、嫡男の藤原道隆を内大臣に任じて関白の地位を譲ったところで死去した。 この後、一条天皇は寵愛する藤原定子の兄で道隆嫡男の藤原伊周を関白に就けようとするが、自らの母の藤原詮子の強請に屈して995年に摂関を置かず兼家の五男であった藤原道長を内覧に任じた。道長は摂関でない内覧として陣定にも出席して権力を確立し、皇位継承に関して一条天皇と三条天皇に要求を押し付けるほどの権勢を持った。道長が摂関の地位に就いたのは、1016年の外孫の後一条天皇が即位して摂政に就任してからの1年程に過ぎず、すぐに息子の藤原頼通に譲っている。 近年の研究においては歴代の天皇の性格や取り巻く状況にもよるが、摂関政治期の天皇は必ずしも天皇の権力は無力ではなく、自ら積極的に政治的役割を果たそうとする天皇が多かったことが判明している。しかし、天皇と公卿や官司の間で文書をやりとりする際には摂関(内覧も含む)が介在させて行うことが多く、特に叙位・除目などの人事の関する御前の儀式には摂関が文書の内容を確認する行事が故実として盛り込まれたことにより、摂関の存在がなければ儀式が成立しないことになった。これによって朝廷の人事権を摂関が把握することに成功し、それが摂関の存在を維持することにつながったと言える。 この時期、摂関家の経済基盤は人事決定権にあり、摂関に指名された受領が任地で蓄えた財産の一部を摂関家に貢納することで多くが賄われていた。このような受領の多くは家司受領と呼ばれ、四位・五位の官人であるにも関わらず摂関家の被官であるかのごとき立場であった。かつて史学史上、彼ら家司が運営する摂関家政所が直接国政を支配していたとする政所政治説が唱えられたが、現在では否定されている。
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