道長流加藤氏
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尾張愛知郡中村より起こった。藤原道長流(藤原長家の御子左家の流れを汲む)とはされているが、真偽の程は定かではない。戦国時代加藤清正は豊臣秀吉に仕えて最終的に肥後熊本の領主に栄進。また豊臣家の武断派として武功も多く挙げた。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでも東軍に属して武功を立て、戦後52万石に加増されて熊本藩主となる。 慶長16年(1611年)に清正が死去して子の加藤忠広が継承するが、寛永9年(1632年)に第3代将軍・徳川家光に素行を咎められ、改易となった。理由は嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだこととされ、他家にも火の粉が降りかかり、ともすれば乱を起こすような行為は領主の子としての資格を厳しく問われたのである。その後、忠広は出羽に1万石の捨扶持を与えられ、余生を過ごした。 忠広の末裔は大庄屋として続き、明治時代には加藤家の屋敷に明治天皇が行幸した。日本人の既婚女性として理学博士号を最初に取得した加藤セチはそのときの加藤家当主の孫に当たる。 加藤忠広の改易後、加藤正見より【加藤氏】蛇の目紋。加藤正範より(筑後加藤氏)
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