道長・頼通時代
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道隆の死後の具体的な伝領過程は明らかでないが、道隆の子供達が道長との政争に敗れた影響か、間もなく道長の所有となったらしい。 長保元年(999年)7月、居貞親王が東三条殿に入り、その御所となっているが、長保2年12月、ここで居貞親王の子敦明親王の読書始が行なわれた際に、藤原行成は「左大臣(道長)東三条第」と明記している。 一方、東三条院詮子は、長徳4年(998年)10月頃、土御門殿から道長が新しく購入した一条殿に移り、長保1年7月には再び土御門殿に戻っている。長保2年頃よりは病が重くなり、頻繁に御所を移しているが、長保3年閏12月、藤原行成の邸宅に移り、崩御した。 長保4年(1002年)8月、東宮妃藤原原子の薨去により居貞親王は大炊御門殿に移る。その後、道長は東三条殿を改築し、敷地の西側にあった泉の水を庭園に活用するために西対を廃した。寛弘2年(1005年)2月に完成し、道長の移徙の儀が行なわれたが、道長の主邸は引き続き土御門殿であった。同年11月末から約3ケ月は内裏の火災のため、一条天皇の里内裏となり、東宮居貞親王は南院に入った。寛弘3年3月、内裏が一条院に移った直後に、冷泉上皇が「三条院」に、次いで「南院」に移っており、10月の「南院」焼亡の際には東三条殿に避難している。この「南院」は再建の後、寛弘5年12月より再び冷泉上皇の御所となって、寛弘8年(1011年)10月に上皇はここで崩御した。なお、南院は『栄花物語』に敦道親王(981年 - 1007年)の居宅として見え、寛仁2年(1019年)に没した敦康親王も「南院」で薨去したとされる。ただし、冷泉上皇の御所であった南院を含め、これらの事項は史料上「南院」「みなみの院」等とのみ記されることが多く、東三条殿の南院であるかどうかには異論もある。 寛弘8年(1011年)6月、居貞親王(三条天皇)は一条院内裏で践祚の後、東三条殿で約2ケ月を過ごしてから、内裏に移った(なお、この内裏は寛弘3年に完成した後、未使用のままおかれていた)。東三条殿は道長娘の三条天皇中宮藤原妍子の御所として使用されたが、長和2年(1013年)1月に火災で焼失した。 その後、東三条殿は再建されないままに道長嫡男頼通に譲られた。万寿2年(1025年)12月から再建が始まったが、再建中の長元2年(1029年)に既に東三条殿に移り住んでいた頼通が病に倒れたところ、陰陽師から「住所鬼霊」すなわちこの邸宅で死去し、息子たちを道長に失脚させられた道隆の怨霊が病を惹き起こしたと進言をされ、頼通は一時退避して道隆・道長の叔父にあたる深覚(兼家の弟)が調伏のための祈念を行ったという。結局、完成間近の長元4年(1031年)4月に再度焼失した。長暦2年(1038年)より再度造営が始まり、長久4年(1043年)にようやく完成を見た。この年12月、内裏であった一条院が焼亡すると、東三条殿が後朱雀天皇の里内裏となり、寛徳2年(1045年)1月に天皇は東三条殿で崩御した。
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