道長・頼通時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 道長・頼通時代の意味・解説 

道長・頼通時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 15:13 UTC 版)

東三条殿」の記事における「道長・頼通時代」の解説

道隆死後の具体的な伝領過程明らかでないが、道隆の子供達が道長との政争敗れた影響か、間もなく道長所有となったらしい。 長保元年999年7月居貞親王東三条殿入り、その御所となっているが、長保2年12月、ここで居貞親王の子敦明親王読書始が行なわれた際に、藤原行成は「左大臣道長東三条第」と明記している。 一方東三条院詮子は、長徳4年998年10月頃、土御門殿から道長新しく購入した一条殿に移り長保1年7月には再び土御門殿戻っている。長保2年頃よりは病が重くなり、頻繁に御所移しているが、長保3年12月藤原行成邸宅移り崩御した。 長保4年1002年8月東宮藤原原子薨去により居貞親王大炊御門殿に移る。その後道長東三条殿改築し敷地西側にあった泉の庭園活用するために西対を廃した寛弘2年1005年2月完成し道長移徙の儀が行なわれたが、道長の主邸は引き続き土御門殿であった同年11月末から約3ケ月内裏火災のため、一条天皇里内裏となり、東宮居貞親王南院入った寛弘3年3月内裏一条院移った直後に、冷泉上皇が「三条院」に、次いで南院」に移っており、10月の「南院焼亡の際には東三条殿避難している。この「南院」は再建の後、寛弘5年12月より再び冷泉上皇御所となって寛弘8年1011年10月上皇はここで崩御した。なお、南院は『栄花物語』に敦道親王981年 - 1007年)の居宅として見え寛仁2年1019年)に没した敦康親王も「南院」で薨去したとされる。ただし、冷泉上皇御所であった南院含め、これらの事項史料上「南院」「みなみの院」等とのみ記されることが多く東三条殿南院であるかどうかには異論もある。 寛弘8年1011年6月居貞親王三条天皇)は一条院内裏践祚の後、東三条殿で約2ケ月過ごしてから、内裏移った(なお、この内裏は寛弘3年完成した後、未使用のままおかれていた)。東三条殿道長娘の三条天皇中宮藤原妍子御所として使用されたが、長和2年1013年1月火災焼失したその後東三条殿再建されないままに道長嫡男頼通譲られた。万寿2年1025年12月から再建始まったが、再建中の長元2年1029年)に既に東三条殿移り住んでいた頼通が病に倒れたところ、陰陽師から「住所鬼霊」すなわちこの邸宅死去し息子たち道長失脚させられ道隆怨霊が病を惹き起こした進言をされ、頼通一時退避して道隆道長叔父にあたる深覚(兼家の弟)が調伏のための祈念行ったという。結局完成間近長元4年1031年4月再度焼失した長暦2年1038年)より再度造営始まり長久4年1043年)にようやく完成見たこの年12月内裏であった一条院焼亡すると、東三条殿後朱雀天皇里内裏となり、寛徳2年1045年1月天皇東三条殿崩御した。

※この「道長・頼通時代」の解説は、「東三条殿」の解説の一部です。
「道長・頼通時代」を含む「東三条殿」の記事については、「東三条殿」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「道長・頼通時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「道長・頼通時代」の関連用語

道長・頼通時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



道長・頼通時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの東三条殿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS