連絡船-定点観測船-巡視船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:39 UTC 版)
「志賀 (海防艦)」の記事における「連絡船-定点観測船-巡視船」の解説
1946年(昭和21年)11月1日、志賀は三菱重工業横浜造船所に入渠し改装工事に着手した。改装内容は船橋を両舷まで拡幅。船体は長船首楼型船形とし、士官用室、応接室等を増設。船楼甲板上にはボート甲板が追加され、後部には兵員室等を設け、ヨット式船形になる。 12月31日、志賀は運輸省へ移管され、1947年(昭和22年)4月8日より米陸軍連絡船として博多-釜山間に就航した。運航は運輸省鉄道総局門司鉄道局であった。12月31日、航路廃止に伴い解役。1949年(昭和24年)1月15日、運輸省横須賀管船部保管船となる。 1950年(昭和25年)12月、中央気象台の定点観測船となり志賀丸(しがまる)と命名され、定点観測に従事した。 1954年(昭和29年)1月1日、海上保安庁に編入され巡視船こじま (PL-106)となり、第三管区海上保安部横浜海上保安部に配属。3月3日、呉に回航。 6月23日、海上保安大学校練習船に改装される。これは、連絡船時代に居住設備を強化されていたことから選ばれたもので、以降第一期生から第九期生までのミッドウェー島海域、ハワイ、ハワイ経由アメリカ西海岸といった遠洋実習航海に使用された。1955年(昭和30年)9月、補強工事を受ける。 1956年(昭和31年)4月17日から22日まで、北朝鮮遮湖(チャホ)から在留邦人36名を舞鶴へ移送。11月30日から12月4日にかけてソ連のナホトカから在留邦人23名を舞鶴へ移送。 1957年(昭和32年)4月12日、6期生第2学年の実習中に第五北川丸沈没事故が発生し、救助のため緊急出動。 1958年(昭和33年)、海上保安庁観閲式に参加。同年、曳航緩衝装置の試験中に後甲板右舷の双繋柱が破損した。後に当該双繋柱は甲板取付用望遠鏡とともに海上保安大学校海上保安資料館で保存された。9月、トランサムを丸みのある形状に改造したため、全長が0.2メートル延長された。 1965年(昭和40年)6月1日附で後継のこじま (PL-21)の就役に伴い退役。退役後は呉に係留された。
※この「連絡船-定点観測船-巡視船」の解説は、「志賀 (海防艦)」の解説の一部です。
「連絡船-定点観測船-巡視船」を含む「志賀 (海防艦)」の記事については、「志賀 (海防艦)」の概要を参照ください。
- 連絡船-定点観測船-巡視船のページへのリンク