逃亡と幽閉とは? わかりやすく解説

逃亡と幽閉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 23:36 UTC 版)

コンスタンティア・フォン・コーゼル」の記事における「逃亡と幽閉」の解説

1715年12月12日、コーゼル伯爵夫人アウグスト強王から返却求められていた結婚約束状を携えてベルリン向かった。彼女はピルニッツでの蟄居処分解かれていなかったので、この旅行逃亡行為みなされた。このような行動をとった彼女を、王は許さなかった。約束状はアンナ・コンスタンティアが寵愛得ていた頃に王から贈られたものだったが、ただの口約束ならまだしも書面残され契約書であることが、王にとっては身の破滅なりかねなかった。もし約束状が、それもよりによってライバル国のプロイセン持ち込まれ公開されようものならば、アウグスト強王は全ヨーロッパ規模醜聞巻き込まれるからである。アウグストやむなくプロイセン王対しザクセン保護されていたプロイセン脱走兵とコーゼル伯爵夫人身柄交換提案したプロイセン脱走兵故国送り返されれば死刑となる習慣だったため、アウグスト最初この交換ためらっていたが、迫りくるスキャンダル避けるためには選択余地がなかった。アウグスト帰国させる脱走兵処刑しないという確約プロイセン王から取り付けたうえで、彼らを送還した。コーゼル伯爵夫人1716年11月21日ハレ、ノッセン(ドイツ語版経由ドレスデン送り返された。彼女は王命により逮捕拘禁され1716年12月24日ドレスデン東郊堅牢な要塞シュトルペン城ドイツ語版)に身柄移送された。以後49年間の余生を、彼女はこの古城で過ごすことになる。 アウグスト強王はコーゼル伯爵夫人与えてきた財産没収することはなかった。それどころか彼女の所領から上がる収益すら彼女自身収入として認めていた。例えば、ラーデボイルドイツ語版)に所有する屋敷シュピッツハウス(ドイツ語版)(「尖塔の館」)の敷地内にあったワイン醸造所収益などである。伯爵夫人総資産当時文書によれば50ターラーもの巨額上っていた。さらに伯爵夫人宮廷許可得てシュトルペン城武器庫区域改装し1743年までその区域居住していた。 1743年住まいとしていた武器庫区域落雷原因とする火事焼失すると、伯爵夫人ヨハン塔(Johannisturm)に移った同年ドレスデン宮廷は彼女の拘禁処分解除したが、彼女はシュトルペンの要塞留まることを選んだ。なぜ監禁所を離れようとしなかったのかは、現在に至るまで明らかになっていない。アンナ・コンスタンティアの3人の子供たちはドレスデン宮廷大切に育てられアウグスト強王は自分認知した子供たちの中で、彼女との間の子供を最も可愛がった。彼らは全員選帝侯家によって条件良い結婚世話してもらえた。1728年以降、コーゼル伯爵夫人大臣たち、アウグスト・クリストフ・フォン・ヴァッカーバルト(ドイツ語版)、ヴォルデマール・フォン・レーヴェンダール(ドイツ語版)、カール・フォン・ヴァッツドルフ(ドイツ語版)との間で交わされ書簡やり取りからは、彼女がドレスデン宮廷へ帰還を非常に強く願っていたことが分かる。 コーゼル伯爵夫人アンナ・コンスタンティアは1765年3月31日シュトルペン城塞にて84歳死去した

※この「逃亡と幽閉」の解説は、「コンスタンティア・フォン・コーゼル」の解説の一部です。
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