逃亡と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 14:27 UTC 版)
「シャルル・バルバルー」の記事における「逃亡と処刑」の解説
やがてパリへと向かったシャルロット・コルデーによってジャコバン派の大物・マラーが暗殺される。逮捕された彼女の近辺捜査から、バルバルーの紹介状やジロンド派議員の名が発見されると、マラー暗殺はジロンド派の陰謀であるという説が打ち立てられる。カーン市に滞在中のバルバルー達にも当然激しい追及の手が及び、彼らはフランス北西部をさすらう身となる。 やがて彼らは、ガデの妻の姉であるブーケ夫人の保護の下、ボルドーの近く、サン=テミリオンに落ち延びる。バルバルーはここで『回想録』(1822年に彼の息子によって出版され、1866年に再編集された)を書いている。しかし1794年6月17日には「ロベスピエールの目」と呼ばれた公安委員会の使者、マルク・アントワーヌ・ジュリアンによって街は一斉捜査を受けてしまう。バルバルーらは逮捕を免れるが、自分達をかばってくれた街の人々に迷惑がかかることを恐れ、街を出る。行く当てもなく、誰からの保護もないバルバルーは、追っ手が近づくことを知ると拳銃で自殺を図るが、負傷しただけで死には至らなかった。やがて瀕死の状態のまま逮捕され、ギロチンにかけられて6月25日に処刑された。
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