逃亡と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 18:12 UTC 版)
「アレクサンドル・コルチャーク」の記事における「逃亡と死」の解説
1919年11月13日にコルチャークはオムスクを放棄し、シベリア鉄道を使いイルクーツクに撤退し、赤軍は抵抗を受けることなくオムスクを占領した。しかし、12月下旬にニジネウジンスクに達した際、イルクーツクが陥落し政治センター(英語版)が掌握していることを知らされる。 1920年1月4日、コルチャークは部隊を解散し、最高執政官の権限をデニーキンに、軍権をグリゴリー・セミョーノフにそれぞれ移譲した。1月14日、ジャナンはチェコ軍団にコルチャークを逮捕するように命令し、コルチャークは政治センターに引き渡された。1月21日から軍事革命委員会により裁判が開かれ、2月6日に行動を共にしていた首相のヴィクトル・ペペリャーエフ(ロシア語版)と共に死刑判決を受けた。その間、白軍のウラジーミル・カッペル(英語版)がコルチャークを奪還するためイルクーツクに向けて進軍しており、奪還を恐れた軍事革命委員会は2月7日早朝、アンガラ川のほとりでコルチャークとペペリャーエフの銃殺刑を執行した。 目撃者によると、コルチャークは処刑される直前でも冷静で死を恐れることなく、銃殺隊の指揮官に対し「パリにいる妻と息子に伝言を頼めるか」と伝えたという。処刑後、2人の遺体はロシア正教会の司祭によって祈りを捧げられた後、アンガラ川に空けられた穴に投げ捨てられた。赤軍がコルチャークの処刑を公表したのは3月7日になってからだった。 ソ連崩壊後もコルチャークの評価は一定していない。帝政支持者による名誉回復運動が続けられている一方、コルチャークのプラークが破壊されるなど、いまだに混乱が続いている。なお、現在はアンガラ川の遺体遺棄現場付近に墓石代わりに十字架が建てられている。
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