農商務官僚(商工官僚)時代 - 満州国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:16 UTC 版)
「岸信介」の記事における「農商務官僚(商工官僚)時代 - 満州国時代」の解説
農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった。同期には平岡梓(三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった。 1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施したとされる。1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。自動車製造事業法の立法に貢献。 1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。 原彬久は、岸を「政治家」として「成長」させた最大の要因は、関東軍という最高権力者をあるいは懐柔し、あるいは説得しつつ、絶大な権力をわがものにする術を身につけさせた、満州の権力機構そのものにある、と指摘している。 この頃から、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。その後、満州から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している。
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