軟水醸造法の開発
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ただこの盛況は短期間に終わった。供給が過多気味に入ったところで、交通の発達に伴い灘・堺のより上質な上方酒が流入して県内を席巻し、更に1884・85年(明治17・18年)の不況に加えてこの時期に政府が酒税を極端に増税したため、県内では経営的に立ち行かなくなる蔵元が続出した。そのため広島の酒造家は生き残りをかけて高値で売れる良質な酒作り、特に灘酒を目標に研究を重ねていく。なお三津の酒舟では中島の船頭が利益を得るため水で割って(金魚酒)売っていたこともあって1887年(明治20年)頃には減少し1892年頃(明治25年)には姿を消した。 1888年(明治21年)、三津の本田泰三・三浦仙三郎、竹原の頼三郎・進藤周次郎の音頭で酒造業者が一致団結して向上を図る目的で賀茂郡南部酒造組合を結成する。これは県内初の酒造組合であり全国でも古いもののひとつになる。 ここで三津に三浦仙三郎が登場する。明治初期から酒造業を始めた三浦も酒質の向上を目指し、当初灘から技術を持ち帰って醸造を試みるも失敗に終わった。1892年(明治25年)頃、その原因が水質の違いによるものだとわかる。灘の仕込み水宮水が硬度8から10の硬水だったのに対し三津では硬度2程度の軟水であるため、灘の真似ではうまくいくはずがなかった。そこで三浦はこれまでのやり方を全く変え、軟水に適する醸造法の研究を始め、1897年(明治30年)軟水醸造法が完成した。この醸造法は大きく2つの特徴がある。 硬水の場合は含まれる栄養を元に酵母が活性化するが、軟水の場合は栄養が不足するため酵母の働きが鈍い。そのため麹が米の内部まで十分に行き渡るようしっかりと育てる。 不足する軟水からの栄養を補うため米からの栄養を用いる。それが十分に溶け出すのを待つため、もろみを低温でゆっくりと発酵させる。 この開発の中で、古くからの習慣に固執する杜氏を更迭して新しく若い杜氏を迎え入れ、それまで杜氏の手の感覚による品質管理だったものに寒暖計による精密な温度管理を取り入れ、麹室を改良し衛生管理を改善した。これによって腐造がほぼなくなった。この軟水醸造法は、三浦が目指した灘酒に対抗できる銘酒が作れる手法であるどころか、それまでの酒造界では軟水は酒造には不向きと言われてたがこの手法はそれを根底から覆すことになった。この手法が今日の吟醸造りの基礎となった技術とも言われている。これをもって三浦が世に出したのが銘酒「花心」である。 この頃の小学校地理教科書には以下の文が書かれていた。 三津町ハ多ク額ノ良酒ヲ産スルヲ以ッテ甚タ名高ク摂津国ノ灘ニ対シ俗ニ下灘ト称ス 三浦は1898年(明治31年)三津町長に当選するも、この文を発見して特に“下灘”のところに感激して発奮し、同年町長を辞し酒造業に専念したという。
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