起源:仮設のセノタフ
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「ザ・セノタフ」の記事における「起源:仮設のセノタフ」の解説
第一次世界大戦は1919年6月28日のヴェルサイユ条約の調印によって正式に終結した(ただし、1918年11月11日の休戦協定によって既に戦闘は終結していた)。イギリス政府は7月19日にロンドンで勝利のパレード(平和の祭典とも呼ばれる)を開催することを計画していた。後にセノタフとなる物の最初のデザインは、パレードのルートに沿って建設されたいくつかの仮設構造物の内のひとつだった。イギリスのパレードのためアイデアを模倣する事に熱心だったデビッド・ロイド・ジョージ首相はパリでの同種のパレードのためのフランス当局の計画には、行進中の軍隊の敬礼ポイントが含まれている事を知った。どのようにラッチェンスが関与するようになったかは不明だが、彼はアルフレッド・モンド(英語版)とライオネル・アール(英語版)(それぞれ政府の大臣と公共建築プロジェクトを担当した工務局(英語版)の上級公務員)と親しい友人だったし、1人または両方の男性がラッチェンスとアイデアを議論した可能性が高いようである。ロイド・ジョージはラッチェンスを召喚し、彼にイギリスのパレードで同様の目的を果たすだろう 「カタファルク(英語版)」を設計するよう依頼した。ロイド・ジョージは、その構造が非宗派的な物である事を強調した。ラッチェンスは同じ日にフランク・ベインズ(英語版)に会い、工務局のチーフ・アーキテクトとして、セノタフのアイデアをスケッチし、その夜の夕食で、彼の友人であるレディー・サックヴィル(英語版)のために再びスケッチした。どちらのスケッチでもセノタフはほぼ完成した状態で描かれている。 ラッチェンスはこのデザインを非常に早く制作したが、サウサンプトン・セノタフ(英語版)のデザインやIWGCの仕事で証明されているように、彼はしばらくの間コンセプトを念頭に置いていた。ラッチェンスとモンドは以前、戦争中にハイド・パークの仮設戦争神殿のデザインで一緒に仕事をした事があった。その神殿は実現する事はなかったものの、ラッチェンスが記念建築のデザインを考え始めるきっかけとなった。建築史家のアラン・グリーンバーグは、モンドが首相との会談前にラッチェンスとセノタフのコンセプトを話し合ったのではないかと推測している。 「ラッチェンスと大戦争」の著者ティム・スケルトンによると、「もしそれがホワイトホールにないのであれば、私たちが知っている様なセノタフは、当然の事ながら他の場所に現れただろう」と書いている。 ラッチェンスのスケッチがいくつか残っているが、その中には慰霊碑の上部に炎のような壺を設けたり、基部に兵士やライオンの彫刻を施したり(サウサンプトン・セノタフのライオンの頭に似ている)など、いくつかの細かい変更を実験的に行ったことを示す物がある。 7月初旬にラッチェンスは最終的なデザイン案を工務局に提出し、7月7日には勝利祝賀会組織委員会委員長であったジョージ・カーゾンがデザインを承認したことを確認した。 除幕式は1919年7月18日、戦勝パレードの前日に行われ、タイムズ紙では「静かな」「非公式な」式典と表現された。ラッチェンスは招待されなかった。パレードの間、15,000人の兵士と1,500人の将校が行進、セノタフに敬礼した。その中にはアメリカのジョン・パーシング将軍とフランスのフェルディナン・フォッシュ元帥、イギリスのダグラス・ヘイグ元帥とデイヴィッド・ビーティー元帥が含まれていた。セノタフはすぐに一般の人々の想像力をかきたてた。戦争の初期から死者の送還は禁止されていたので、セノタフは不在の死者を代表する物となり、墓の代わりと見なされた。戦勝パレードのほぼ直後から、一般の人々がセノタフの基部に花を植えたり、花輪を作ったりした。1週間以内に推定120万人の人々が死者に敬意を払うためにセノタフを訪れ、セノタフの基部には大量の花が供えられた 。 タイムズ紙によれば「ロンドンの勝利の行進の中で、セノタフほど深い印象を与えたものはなかった」。
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