起こりと自治政府の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 21:23 UTC 版)
「バスク・ナショナリズム」の記事における「起こりと自治政府の成立」の解説
「バスク民族主義の父」と呼ばれるサビノ・アラナはバルセロナ大学で学ぶうちにカタルーニャ・ナショナリズムに共感し、1892年の著作『ビスカヤ地方の独立を求めて』などでビスカヤ地方の精神的独立の復活を訴え、1893年の「ララサバルの演説」によって政治活動を開始した。アラナは「血族、言語(バスク語)、統治と法(フエロ)、気質と習慣、歴史的人格」の5つをバスク民族の独自性を定義づける要素に挙げ、特に血の純潔によってバスク人はスペイン人に優越するとした。アラナは1894年にバスク人クラブを発足させ、このクラブは1895年にバスク民族主義党(PNV)に発展した。アラナの主張は近代的工業化から除外された中小ブルジョワ層に受容され、1898年にはバスク民族主義党員として初めてビスカヤ県議会議員に当選した。アラナは「私はビスカヤ人であるからスペイン人ではない。しかし私は分離主義者ではない。ビスカヤにしか属したことがないからだ」という思想を持ち、名称(エウスカディ)と旗(イクリニャ)を持つ、7地域 がひとつにまとまった国を提起した。アラナは1903年に病死し、彼の思想は後継者たちによって多様に解釈されていった。 19世紀末のビスカヤ県では3大鉄鋼企業と2大銀行が経済を牛耳っており、初期のバスク・ナショナリズムは反工業化を唱えたが、ゼネストなどの労働運動を展開していた非バスク系労働者と連帯することはなかった。1930年以前のバスク・ナショナリズムは工業化が進展していたビスカヤ県特有の現象であり、バスク民族主義党の影響力がギプスコア県にまで及んだのは第二共和政期、スペイン内戦以前のアラバ県やナバーラ県にバスク・ナショナリズムは根づかなかった。また、初期のバスク・ナショナリズムは都市特有の現象だったが、第一次世界大戦後には近代化の余波が及び始めた農村部にも伝播していった。1923年以後にはカタルーニャ・ナショナリズムやガリシア・ナショナリズムとの連携の動きがみられた。初期のバスク・ナショナリズムはバスク地方の独立や分離を訴えたが、やがてスペイン国家内での地方自治の訴えに変化していった。 1931年には第二共和政が成立し、バスク民族主義党はエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)を採択して国会に提出したが却下された。第二共和政下では各政治勢力の主張が交錯し、バスク民族主義党はアラバ県やナバーラ県の支持を取り付けることに失敗したことで、バスクの地方自治の実現が遅れた。1936年には共和国議会でホセ・アントニオ・アギーレをレンダカリ(政府首班)とするバスク自治政府が承認されたが、1937年にはフランシスコ・フランコ軍によってビルバオが占領され、バスク自治政府による政治的独立の試みは頓挫した。
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