起こりとバイエルン家との分化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 07:08 UTC 版)
「プファルツ家」の記事における「起こりとバイエルン家との分化」の解説
1180年にオットー1世がバイエルン公に封じられて以降、バイエルンの地はヴィッテルスバッハ家が統治するところとなったが、その息子であるルートヴィヒ1世はヴェルフ家のライン宮中伯ハインリヒ6世が1214年に子を残すことなく死去したことを受けて宮中伯位を継承する。ルートヴィヒ1世の息子オットー2世は1222年にハインリヒ6世の妹であるアグネスと結婚したことでライン宮中伯位を継承する正統性を獲得し、結果、プファルツ地方はバイエルンとともにヴィッテルスバッハ家が代々世襲するところとなった。 オットー2世の息子の代でバイエルンは二分化され、長男のルートヴィヒ2世が上バイエルンとライン宮中伯領を、次男のハインリヒ13世が下バイエルンをそれぞれ継承している。ルートヴィヒ2世が1294年に死ぬとライン宮中伯位は長男のルドルフ1世が単独で継承する一方で上バイエルンの地は次男のルートヴィヒ4世バイエルン王と共同統治している。しかし、両者は後に対立し、1314年にルートヴィヒ4世がローマ王に選出されると、ルドルフ1世はハプスブルク家の対立王フリードリヒ3世を支持して1317年にルートヴィヒ4世により敗北、ライン宮中伯は剥奪されて1319年に失意のうちに死去する。ライン宮中伯はルドルフ1世の息子であるアドルフが継ぐことを許されたものの実質的にはルートヴィヒ4世の傀儡に過ぎず、1329年に死ぬと弟のルドルフ2世が継承した。同年にパヴィアにて叔父ルートヴィヒ4世と和解して、ライン宮中伯はルドルフ1世の一族が、バイエルン公はルートヴィヒ4世の一族がそれぞれ有することで和解した。以後、ルドルフ1世の系統をプファルツ家、ルートヴィヒ4世の系統をバイエルン家と区分するようになる。 ルドルフ2世の弟であるループレヒト1世はルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書により選帝侯位を獲得したことによりライン宮中伯はプファルツ選帝侯に昇格した。アドルフの孫であるループレヒト3世は皇帝ヴェンツェルが1400年に廃位されたことを受けてローマ王になるものの世襲化には失敗している。
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